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第8話
教祖はその日、いつになく真剣な面持ちをしていた。
「……ご相談があります」
「相談? 俺にか」
いつものように、悪魔はベッドの縁に腰をかけて教祖の帰りを待っていた。当初と違うのは、姿だけだ。
この部屋に戻るという事は、悪魔と交わりに来る事と同意だった。悪魔が人間の姿を保っていた時は契約の為という頭があったが、今は飢餓感にも似た欲求を自ら満たしに、いそいそと部屋へ戻る日々だ。
村人も弟子も何も言わない。何しろ薬売りは、この村の救世主だ。その薬売りが一切人前に出ない事に、本来なら怪しむ者もいたのだろうが、この村には心根の清い者しかいない。教祖の登場でその傾向は更に強まり、猜疑心というものに酷く疎かった。
この村においては、薬売りも既に神格化されつつあった。故に教祖の部屋に引き篭もり、教祖だけが相手をしていても訝しむ人物は皆無だ。
誰も何も疑わない。
だがその事に、真っ先に限界を感じたのは、教祖だった。
神妙な顔で、重い口を開く。
「この村を……出ませんか」
それは教祖として、最後の決断だった。
「村を? 俺とお前とで、か?」
「はい」
己の身体は、日に日に淫らになっていく。
どこで誰と接していても、頭の中では悪魔と交わる事でいっぱいだ。いつボロを出してしまうか分からない。
正体を知られ、幻滅されるのは怖い。ただそれ以上に、ここまで築いたものを壊すわけにはいかなかった。
隣人を疑う事なく、私欲に溺れる事もなく、助け合い、清らかに生きていく。
それは教祖が思い描いた理想郷だ。
そこには、悪に身を差し出した己は不要な存在だ。勿論、悪そのものも。
たとえ村を救ったのは事実だとしても、それが人の精気を吸って生きる悪魔だなどと、この村の人間には計り知れない亀裂を生むのは明白だった。
だから、もう、ここを離れるべきだ。
このところは農耕も上手くいっているし、大きな病もない。弟子たちは充分立派にやっていけるだろうし、この村に心配事はない。
ただひとつを除いては。
「では低級悪魔どもはどうする。機会があればまた村を狙うぞ」
「それは……」
唯一不安なのは、そこだ。
この悪魔は、ある意味ではこの地の守り神だ。
彼がここを離れれば、村は再び低級悪魔たちに目をつけられてしまう。
「……まあいい」
「えっ?」
「手は打ってやる。数百年は雑魚どもが近寄れないようにな」
呆気ないほど簡単に、悪魔は協力した。
こんなに上手く事が運ぶなど、何か裏があるとしか思えない。
「何を呆けた顔をしている」
「い、いえ……まさか、そんな事が出来るだなんて……」
「俺を誰だと思っている。その気になればこんなちっぽけな村、一瞬で灰燼に帰す事も出来るぞ?」
「っ……!」
「怯えるな、実行する気はない。村を消しても、俺に利益がないからな」
教祖は押し黙った。
この村が存在しようがしなかろうが、この悪魔にとっては恐らく大差のない事だろう。ただ人間が増えれば、それだけ餌も増える。中にはこの上級悪魔を満足させる人間もいるかもしれない。
……きっと今は、まだ、この身で充分な役割を果たしている筈だ。
その間に、悪魔の加護……というのも変な話だが、とにかくあの惨事が再び訪れる事態だけでも防げるのならば、是が非でも頼みたかった。
対価に、何を要求されようとも。
神との違いはそこだ。
悪魔は常に、望みを叶える事に、対価を要求する。
けれど今教祖が欲しているのは、悪魔の力だ。
「では明晩に出立だ。それまでに手筈を整えろ。お前は色情狂だが頭は悪くないからな。どうせ下準備はしてあるんだろう?」
悪魔は口端を吊り上げて笑いながら、随分と久し振りに見る薬売りの姿に化けた。
答えを待たずに、男は窓から音もなく表へ出た。
悪魔の言う通りだった。
あとは弟子に、次の地に布教へ向かうと言えばいいだけだ。同行を求められたら、この村を任せるという名目もある。準備なら、出来ていた。
……本当に、悪魔は全てを見抜いていた。
己がなんの為に、村を出る事を決心したのか。
村人の為? 弟子の為? そんなものは後付けの理由だ。
もうここでは、こんな粗末な部屋では、物足りないのだ。
もっと心から叫んで、欲して、思うがまま快楽を貪りたい。
色情狂。その言葉は、きっと正しいに違いなかった。
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