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5.ビッチな俺の戸惑う気持ち④
名木がテーブルに右手を乗せる。それにはその一以外の先輩方が『マジかよ、』と慄いている。だって名木は将来プロになることを約束されたピアノのエリートだ。指をペンチでつぶすとなると、その道が絶たれるも同然。名木と先輩とのやり取りの間も、疲れてしまって力なくソファーに腰かけていた俺は、がばっとその半裸の身を起こして立ち上がる。『じゃー、』といってペンチを名木の手に近づける先輩その一から、テーブルから名木を遠ざけさせるために後ろから名木に抱きついて、
「駄目だっ! 名木!! 名木はだって、ピアノを弾かなきゃいけないんだから!!」
「……唯月」
「名木の演奏はすごいよ、誰よりも技術が磨かれてて、今まで努力してきた証拠だって俺も思った!! 名木はこれから、だってこれから俺と恋をして、もっと演奏を良いものにするんだろ!?」
ブレブレである。俺は名木を堕落させたいと、名木を駄目にしてやろうってそういう計画だったのに。やっぱり俺も、芸術家の端くれなのだ。素晴らしい芸術家が、目の前でましてや自分なんかのために潰される所なんか、見ていられなかった。俺は必死なのに、必死で名木をテーブルから引きはがそうとしているのに、名木はピクリともせず、逆に俺をストンと持ち上げて、再び大人しくソファーに座らせる。その瞳には絶望なんかは一つもなく、むしろ優し気ないつものつらっとした名木の平然であった。
「唯月。言われなくても解っている。大丈夫、君をここから、絶対に助け出す」
「!? それって、」
俺が言いかけた次の瞬間に、名木はペンチを持った先輩その一の腕を、捻り上げて締め上げていた。ギチっとそこは絞まって軋んで、先輩その一は『い゛っ、だだだだだ!?』とバシバシ机を叩いてはギブアップの合図をするが、名木はそれをやめない。
「このまま続けると、先輩。あなたの腕が折れてしまいます」
「い゛ってえなあああ!!? はなせっ、離せよクソっっ!!」
「離すためには、約束が必要です」
「はああ!? 約束してたのはそっちだろーがっ、お前、落とし前をっ……」
「唯月をあんな目に合わせた落とし前を、今あなたに取ってもらっている」
「ふざけんな! おいお前ら、こいつ引きはがせ!!」
先輩その一が、その他に命令するもその他先輩は、名木にじっと無機質な目で睨まれては、その場から動けないでいる。
「そして、あなたの腕が折れる前に約束してください」
「何をだよ!? いってええええはなせーーー!!」
「その一、唯月をテニスサークルから退部させること」
「はっ……このっ、」
「その二、唯月に金輪際関わらないこと」
「はあっ!? ふざけんなよっ、唯月は俺たちのっ……」
「その三、『肉便器』という言葉。汚いです、二度と使わないこと。約束できますか?」
「くっ、そ……!!」
ギチっと益々拘束が強まると、先輩その一は他の奴らが助けにも入ってこないことを察して、やっとのことで、
「わかった、わかったよ名木! 約束する、唯月は退部していいし、俺らは唯月にもう関わらねーよ!!」
「はい、ありがとうございます」
名木がやっと手を離す。拘束を解くも、まだ絞め技の名残の痛みがある先輩は床をゴロゴロ転げまわって『いってえええ』と叫んでいる。名木はつらっとした顔で他の先輩方の顔を一人一人見て『あなたたちも、約束です』と言っては首をブンブン縦に頷かせている。それが終わったら名木は俺の方に来て、目を白黒させている俺に服を着せて、それから俺を負んぶにしては部室の出口へと向かった。
「では、そういうことですので」
そういうことで、俺はヤリサーを退部することになったのだが、名木は人目も気にせず俺を負んぶして大学構内を歩いたかと思うと、すぐこの前に俺にピアノを聞かせたピアノ室へと俺を連れて行って、そこでやっと俺を下ろしては、俺の身体をタオルで綺麗に拭き始めた。俺はされるがままで、今でもまだ混乱していて、あれ? 俺、結局これからどうなっちゃうの? という感じである。
「な、名木?」
「なんだ、唯月」
「もしかして、最初から指を潰される気なんてなかったの?」
「当たり前だろう。俺は君と恋をして、もっといいピアノ弾きになると決めている」
「ちょっ、だったらなんであんな真似っ……心配した俺の気持ち返せよな!?」
「心配をしてくれて、嬉しかった。ありがとう唯月」
「もうっ! そんな言葉で俺は誤魔化されなっ、んむっ」
口付けられる。優しく、優しく恋人にするみたいに。唇をやさしく食んで、舌を使うことはしないで名木は、数秒後に俺から顔を離して笑う。
「これで君は、俺以外とセックスをする理由がなくなったな」
「なっ……」
「逆に言えば、君はもう俺以外とはセックスができなくなった」
「そっ、そんなこと……だってそれに、王子たちだっているし、」
「彼らとの関係まで絶てとは言わないけれど……もし君がまた彼らとそういう行為をしようものなら俺は、」
「俺は?」
「ふふっ、さあ? 嫉妬に狂って何をするかわからないな」
「……」
甘い、言葉の拘束であった。名木は甘く優しく俺を縛る。それは恋というよりも、彼が彼の中で長年育て上げた、俺への『愛』でもって。俺は少し頬を染めて、ふいっと名木から顔をそらして強がって言う。
「ふん、そんなこと言って。本当にひどいこと、名木は他人には出来ないくせに」
「どうだろうな」
名木は優しい。出会ったばかりだけれど、身体を重ねて彼の言動を見て、短い間で確信できるくらいに。そんな名木に、落ちこぼれの俺なんかが釣り合うんだろうか。名木は俺を一番だとしきりに言うけれど、俺は結局万年銀賞の負け犬なのだ。現に、俺を負かせ続けた西城は奇しくも俺と同じ、俺たちと同じ大学に在籍している。もうすぐ絵のコンクールがあって、それは絵画専攻の生徒には必修の課題で、そこで俺はまた西城に負けるのだろう。思って少し、俺が暗い気持ちになっているころ。
「……名木、名木拓斗」
兄ちゃんである。兄ちゃんが実家の離れのパソコンで、名木の情報を集めているのだ。兄ちゃんは頭がよく、情報科学にも精通しているから。彼の手にかかれば有名な名木家の住所くらい、すぐに解ってしまうのである。そして、
「お前の所業は取り急ぎ、お前のご両親に報告する必要があるよなぁ?」
芸術肌で独り言の多い兄ちゃんは、そう言ってまた笑う。
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