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8.①
名木が名木家の豪邸に帰ってリビングに入っていくと、そこには難しい顔をした(取り急ぎ仕事を切り上げてきた)名木の父親と、真っ青な顔をした彼の母親がソファーに座り込んでいた。
「ただいま帰りました」
「座りなさい」
厳格な父親にそう言いつけられて、名木もまずは大人しく二人の向かいのソファーに座る。荷物を横に置き、迷いのない目で両親を見ると、一方揺れる瞳の母親と目が合って、逸らされる。父親は、流石家主というだけある。厳しい瞳、冷たい瞳を名木に向けて、語り掛けた。
「お前、阿須間家のご次男とはどういう関係だ」
「ですから父さん、どこでそれを?」
「質問に答えろ」
有無を言わせない厳しい声色に、名木は一つ息を吐いてから、まっすぐまっすぐ父親を見返す。
「唯月は、俺の愛しい人です。今は両思いとは言えないけれど、いつか俺は、唯月の恋人になる」
「その唯月君とやらに、お前は無理やり猥褻な行為をしたと聞いたが」
「彼と、無理矢理にことに及んだことはありません。すべて合意の元です」
「でも拓斗。唯月くんは男性が怖いんだってお兄様が……あっ」
そこまで口を滑らせたのは、動揺している母親である。母親の言葉に名木はピンと来る。かの日俺と名木の行為の名残を見て、激怒して名木に『出ていけ』といった俺の兄ちゃん。阿須間京介が俺から名木を引き離すために、名木の家庭にその事情を持ち込んだらしいことに気が付く。が、その事実はもはや問題ではない。
「とっ、とにかく拓斗。あなたには美鈴さんが居るでしょう? この前だってあんなに和やかに、デートだってしたじゃない」
「親同伴の食事会がデートですか? 音楽業界内の付き合いの間違いでしょう。美鈴さんには悪いけれど、俺は彼女と結婚するつもりなどありません」
「お前の意見は聞いていない。お前はこの家のために、将来の子孫のために美鈴さんと結婚をしなければならない」
「拓斗。明日にでも美鈴さんに言って、また、今度は二人きりで話し合ったらどうなの? 美鈴さんは可愛らしいお方だし、拓斗だってまたその気に、」
「俺にはずっと、唯月だけです」
「ずっと、だと?」
父親が膝の上で、苛々しているらしくとんとんと指を鳴らしている。眉を曲げて、名木を睨む。負けじと名木も、彼らを睨むようにする。
「この際はっきりします。唯月は中学時代から、あなたたちの操り人形だった俺の、唯一の救いでした。そして彼との恋を始めている俺は、もうあなたたちの操り人形ではない」
「お前、どういうつもりだ? そうやって、私たちに逆らって何になる」
「そして、俺の演奏を縛っているのはあなたたちだ。俺のピアノは、唯月と一緒にいることでもっと自由になる。あなたたちの力を借りなくたって、俺はもっと良いピアニストになれる」
「馬鹿か。お前は『名木家』の長男の肩書でもって、今までだってずっとやってきたじゃないか」
「ですから、それが呪縛なんです父さん。俺は、とにかく美鈴さんと結婚するつもりもない。あなたたちの、ずっと操り人形でいるつもりもない」
「本気で言っているの、拓斗?」
「母さん、俺は本気です」
と、言ったところで名木の父親が立ち上がる。苛々した様子で、厳かに低い声で名木の前に立ちはだかる。
「今日中に出ていけ」
「っ、あなた!?」
「そんな大口を叩くのなら、今日中に荷物をまとめて、この家から出ていけ。それで一人前にピアニストとしてやっていけるということを、私たちに証明してみなさい」
「そんなっ、あなた! 拓斗は私たちの可愛い息子で、美鈴さんのことだって、」
「一人前になったとき、改めて考えるがいい。お前に本当に必要なのは、子孫を残せるピアノ名門の美鈴さんか。その、美術家一家のおちこぼれの唯月くんかを」
「わかりました。では荷物をまとめてきます」
「拓斗っ!?」
「ただひとつ、」
リビングを出ていく際、名木はその秀麗な目を細めて血のつながった父親を睨みつけ、威嚇するように声を放った。
「唯月はあなたたちの思っているような、『おちこぼれ』ではありません」
「……」
父親はもう名木の相手をするつもりはないらしく、それには答えずまたソファーに座る。名木は自分の部屋に戻って、会話を聞いていた手伝い達に『坊ちゃま!』と駆け寄られて『大丈夫』などと笑って見せたりしながら、さっさと彼の少ない荷物を、旅行用のキャリーバッグに少しずつ積めていき始めた。
(これじゃあ、きっと唯月に心配をかけてしまうな)
そう、思いながら。
***
友達の絵を描くというのは、今まで碌な友達のいなかった俺にはむずかゆい、幸福なことである。兄ちゃんも来ないから集中して、夕飯も取らずに五時間かけて俺は、その絵をさっさと描き上げた。俺はもともと早筆(?)というか、描くのが早い。夜の十時になって電気をつけた部屋の中、散乱した絵の具をちらっと見降ろして、それから再び描き上げた絵を見て、俺は満足する。
俺の、まぎれもない友人たちが楽しそうにソファーで談笑している所。決して想像ではない、中学時代に描いた『家族』の絵とは比べ物にならない良い絵だった。
「あー……ひっさしぶりに、こんなに根詰めて描いたなぁ」
でも五時間で描いただけあってその絵には多少の粗があって、だからコンクールの提出期限までにちょくちょく手直しを入れていこうと考えて、考えながらもエプロンを付けたまま、俺はソファーにごろんと寝転がって、そのまま眠りについてしまった。
……そのころの王子の話だ。
王子はこちらも大学から徒歩圏内の普通のアパートで、カップ麺をすすっては名木の許嫁のことを思っていた。
「あーあ、なんだよアイツ。マジウケるよな、許嫁だってよ」
多くの一人暮らしの大学生にあるように、王子は独り言が多い。衣類でちらかった狭いワンルームで、それから片手で携帯を弄ろうとしてスマホを起動したところに、王子の番号に電話がかかってきた。それはまさしく、本日さっき番号を交換したばかりの、仲良しなんかじゃない……、
「もしもし。なんだよ名木」
そう、名木であった。
『王子くん、今は暇か? 家に誰かいたりしないか?』
「はあ? まあ一人だけど。そりゃ暇だし」
『君の部屋に、遊びに行っても良いかな』
「はー!? 嫌だっつうの、どうしてエリートくんを俺の部屋に上がらせなきゃ、」
『良い酒の一つでも持っていくよ』
「……」
と、いうことで名木は王子に住所を教わって、まさか名木がキャリーバッグを引きずってきて『泊めてくれ』なんていうこともまだ知らない王子は、酒につられて育ちに似合わず結構強引な名木を、自身の部屋へと招いてしまった。
「なんでだよ!!?」
これがのちの、率直な王子の叫びである。
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