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8.②

 次の日の朝。名木家から(名木が出て行ったという)連絡を受けた兄ちゃんが、ソファーですやすやの俺の部屋を訪ねてきた。インターホンの音で目覚めた俺は、がばっと起きて時間を確認して、まだ必修講義の時間ではないことに安心してから玄関に出ていく。 「はーい、兄ちゃん? どうしたの」 「おはよう唯月。あの男が来たりはしていないか」 「あの男って?」  寝ぼけ眼で目をこすりながら、エプロン姿のままの俺を放って兄ちゃんは俺の部屋を家探しするように細かいところまで見て回る。名木の痕跡がないことに気が付くと、やっとのことで兄ちゃんは俺のリビングの端に寄せられて、布をかけられていた油絵に気が付く。 「なに? 兄ちゃんこんな朝から何か変だよ」 「唯月、絵を描いていたのか」 「うん……久しぶりに、集中して描いて疲れちゃった」 「あいつはここには、流石に来なかったか」  それは昨日の名木家の騒動の後、母親から『唯月君とまたおかしなことがあったら、あなたの名前に傷がつくわ。公表されるかもしれない』とメールを受けた名木が、俺のところに来るのを遠慮したからなのである。名木は今、王子の家で床に雑魚寝ですやすや就寝中だ。それはともかく、兄ちゃんは俺が絵を描いていたことに目を細めて、布に手をかけてめくろうとしてから俺に聞く。 「見てもいいか、唯月」 「え、う、うん。恥ずかしいし、途中だけど、結構いい出来だって俺も思うから」 「そうか」  兄ちゃんの手によって、油絵の布が取り払われる。幸福オーラに満ちた、朝の光を浴びたその絵に兄ちゃんはまた目を細めて、しかしそれから、ソファーに並んだ四名の内ひとりをみつけてはまた、別の意味で目を細める。 「これは……名木か。それに他の三人は?」 「えっ、いや、友達だよ。ただの友達。昨日家に来てもらって、あっ」 「あれほど男を家に上げるなと、この前だって思い知っただろう」 「ごめんなさい。でも、本当に絵のモデルになってもらっただけで、」 「それは分かる。部屋中見て回ったからな、ふん」  兄ちゃんが、マジマジと俺の絵に見入る。触れそうなくらい指を近づけていろんな線をなぞる様にして、それからふっと笑った。 「腕を上げたな、唯月」 「そう、かな……」  とはいうが、俺にだってわかっている。とても明るい、それは良い絵だから。兄ちゃんは、俺を男たちから遠ざけ続けていた兄ちゃんは考えて、それからこくりと頷いた。 「名木がまた、ここに来ていたことは面白くないが……やはり俺の弟だ。唯月は良い絵描きになるな」 「ほんとうに? 俺、絵に、あんなに長い間、絵のことを蔑ろにしてきたのに、」 「それは唯月の責任ではないだろう。高校時代の悪い夢のせいで、唯月。やっとあの夢から、お前は覚めたようだ」 「……うん」  それは俺が、同級生に凌辱されて回されて、遊ばれ続けて男に恐怖していた過去のことである。その夢から、悪い夢だ。あれは悪い夢だった。それを覚ましてくれたのは……やっぱり名木だ。 「ただし、」  俺の鼻先に兄ちゃんの綺麗な指が突き刺さる。兄ちゃんの厳しい声。 「お前は俺だけの、可愛い弟だ。前のように名木なんかと身体の関係を持つようなことがあれば俺は、」 「俺は?」 「……まあ、唯月には関係のないことか。俺はそろそろ行くよ、仕事があるからな」  何か言いかけて止めた兄ちゃんに首を傾げながら、俺はしかし『わかった』と返事をしてエプロンをとって、着替えをしよう、シャワーを浴びようと脱衣所へ向かう。 「講義に遅れないようにな、唯月」 「はぁい」  穏やかな朝であった。兄ちゃんに扉越しに声をかけられて、兄ちゃんが出ていく気配がして、俺は温かいお湯を全身に浴びては色んなことを考えた。

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