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第13話

 寝ぐせを直された手で誘われ、キッチンへと足を運ぶ。 「ヨーグルトなにしますか?」 「蜂蜜をかけようかな。ありがとう」  何度も泊まっている佐藤の食事事情は筒抜けとなっており、テーブルに手際よく皿が並べられる。手伝えたのはレタスを千切っただけだ。 「そういえば。昨日のあれはなんだったのですか?」  いただきますと手を合わせて、遅い朝なのか早い昼なのか判断つかないサラダを口に運び首を傾げる。 「あれ?」 「紙に描いた魚とラロゲプリーブです」  資料室で上司を交えてのやり取りか。そういえば、まだ保留となっていたと遅れて気づく。 「よく覚えているね。僕はかまわないけれど、仕事の話をしていいの?」  こんなプライベートな空間で。 「はい。気になります」  そんなに大層な話ではないのだが、先伸ばしたせいで期待させてしまって申し訳なくなる。 「これは心理テストとかじゃなくて、描くこと自体に意味があるんだ」  皿の間に置かれた紙に目をやる。会社からわざわざ自宅に持ち帰ったのか。  上司は左側の中央に大きく立派な魚を描いており、横山は大きすぎず小さすぎずの魚を数匹描いた。絵にそれぞれの個性が出ていて興味深い。だが、今回狙ったところは別だ。 「描いたあとに、きみがいった『絵を描く意味がわからない』それがそのまま、その通りなんだ。きみの答えは、僕が他のスタッフに関心をもって接していることに対してだったのだけれどね」 「え?」 「『三十秒で魚の絵を描いて』って、実はあえてあいまいな指示を出したんだ。指示を出された人――今回はきみと課長だけれど――の考えで判断して行動できると、それぞれ好きなように描くでしょう?」  描き出すまでに、種類はなんなのか、どのくらいの大きさなのか、何匹か、写実的なのかイラスト風なのか、さまざまな想定が頭を巡っただろう。そしてできあがった絵は個性が出ていた。解釈の違いで結果が変わってくるのは利点でもあり、一定ラインの成果を欲している場合は欠点となる。 「出題した側の僕は、干物をひとつ描いて欲しかったのに」 「……そんなことあります?」  あっけにとられている表情も素材がいいと男前だと感心してしまう。  ある意味、干物も魚で間違いはない。だが、魚の絵といわれて描く選択肢からはほど遠い。横山の困惑もわかる。 「まぁこれは極端な例だけれど、現実に起こるのだよね。で、それが仕事の現場になったとして。きみたちの立場としては、まともな指示を示されず少ない情報から解釈して結果を出したのに、指示に従わなかったって先輩に一方的に怒られたらナニソレってなるでしょう? 今まで積んできた評価は下がるし、給料ももらえなくなるかもしれない」  出題者に質問すればいいかもしれないが、それは大きな力関係があると萎縮してできないことも多分にある。そこを生かすも殺すもがコミュニケーションだろう。 「っていうのが、僕を含めてあるていど経験を積んだ人は初心を忘れやすいから、しっかり相手に伝わるような提示をしようねって。そのために『これから課長と横山くんには、それぞれ紙に干物の絵をひとつ描いてもらいます。時間は三十秒です』とか具体的な説明があると、互いに困らないよね」 「実際に描いたらシュールですが」  いい大人が黙々と描く干物。もっともだ。想像したら笑ってしまう。  指示する方は自分の頭の中でわかっているから省略した指示を出しがちになるが、他人は頭の中をのぞけない。 「それでさらに、……えっとラロゲプリーブだったっけ? 僕がいったの」  なんて長い言葉を選んだのだと、昨日の己に悪態をつく。  疑問を浮かべた目の前の表情に、まあそうだろうと察する。 「あれは適当に僕が作った造語。検索しても出ないだろうし、そもそもそんな言葉があるかどうかも知らない」 「どうしてそんなもの出題したのですか?」  出題者自体が知らない答えのないものを描けというのは、無理難題でしかない。 「困ったでしょう? たくさん考えたでしょう? ――ソレが、はじめて業界の専門用語に触れる人や新人も似たような感じかなって。疑似体験できた?」 「……なるほど」  口元に手を当てて思案している姿は本当に絵になる。ああ眼福。自分は横山の顔が好みなのだと知らされる。 「専門性が深くなるにつれて、どうしても使いたくなっちゃうでしょう?」 「ええ。理解した気になって、相手にいいたくなりますね。無意識にマウントをとるというか」  それらしく難しい言葉や知ったような専門用語を重ねて、あいまいな状態のまま煙に巻くのは発言者が己の中に落としきれておらず、結果第三者に通じないことが多い。かみ砕いて初心者に門戸を開くことで、今後の発展が望める。新たな風が入らない閉鎖的な分野は淀み、辿るのは衰退一択だ。 「それがすべてダメじゃないけれど、無理に難しい言葉を使わなくても伝わるし、物事って難しく考えがちだけれど意外と単純でもあると思うんだよね」  水泳でないが、はじめて顔を水につける人間にターンについて説明しても理解を得られにくい。同レベルやそれ以上の者にしか届かない。逆転の発想として、わざと初心者や無知を振り分けるフルイの役目ともなるが、今はその話ではない。 「たとえば、そうだね……僕がきみのことを好きになったきっかけは、何度か遊びに来てくれて嬉しかったからだし――って、ちょっと! 危ないっ!」 「秋生さん、愛しています!」  言葉を奪うようにしてテーブルの向こうから急に二の腕を引かれ抱きしめられて焦る。しかも箸を持ったままなので危険極まりない。 「……話、ごはん終わってからにする?」  慌てて皿の間に手を突いているものの、姿勢が崩れて食事が悲惨なことになりそうなのは時間の問題だ。 「……いえ、続けてください。取り乱しました」  手を離され、着席したと思えば今度は己の顔を覆って表情が見えなくなる。大丈夫だろうかと一抹の不安が過る。 「あー……えっと、まあ、長い間連絡なかったときはちょっと拗ねたけれど、それはきみのせいではなかったし、僕はきみをだいぶ好きだよっていう、意外とシンプルだよって。もしも帰国した直後なにもいわずに、僕から家の合鍵渡されたとしてもわからないでしょう。順を追って説明されないと」  専門用語の件だけではなく、プロセスも必要になる。 「ティーチングとかコーチングって聞いたことある? 気になったら調べてみるといいよ」  自分が伝えられるのは触りだけ。あとは横山の学習欲しだい。 「そう、します」  口数少なく同意するが、うつむいたままだ。耳が若干赤く見えるのは光の加減だろうか。普段は整えられている髪がさらさらと流れる。沈黙にデジャヴを覚えながら、佐藤は静かにコーヒーをすする。  どうしたものか。以前のように、新人のころの話をする訳にはいくまい。

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