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たいへんなへんたい(前)
夏休み、幸彦の家のダイニング。俺たちは勉強会の名目でふたり集まり、向かい合わせでいきなりおやつタイムを始めていた。
幸彦が目の前で五個入りのクリームパンを上品にひとくちサイズに割って食べている。
「なぜ幸彦は平気なんだよ」
「何が?」
「クリームパン」
ああと幸彦が言う。
「中味はカスタードクリームだよ。わかりきってるもの、別物だって」
俺によけいな想像をさせた当人はけろっとしている。
「朔夜が繊細なんだよ。想像力豊か?」
俺ははあーとため息をつく。
「そんな想像力いらねー」
「いるよ-」
「いつ?」
幸彦がにっと笑う。
「セックスの時」
「ええー?」
露骨に疑ってみせる俺に、幸彦は言った。
「だって考えてもみてよ。相手が気持ちいいかとか、どうすればもっと感じてくれるかなんて想像力がなければわからないよ。自分だけ気持ちよくなって相手のことを考えないなんて最低だと思わない?」
「それは、そうだけど」
幸彦が組んだ両手に顎を乗せた。
「だから僕はとてもラッキーだよ。朔夜が僕のことを考えて動いてくれるから」
「だって、どうせなら喜ばせたいじゃん」
やや唇をとがらせ気味にもごもご言った俺の右手を幸彦が掴んだ。
「それだよ、それ。それは想像力のある人だけができることなの」
「なら、幸彦もそうじゃん」
幸彦が口だけでにまっと笑った。
「僕のはちょーっとちがうかな」
思わず少し引いてしまう。
「何その笑顔?」
「僕は朔夜がかわいくてたまらないんだ。だからもっともっと鳴かせたい」
顔が真っ赤になるのがわかった。
「俺は鳥か!?」
「よくわかったね。そんな感じ」
階段を降りる足音がした。
俺たちは無言でテキストやノートを開く。
「おはよう、美少年たち」
「おはようございます」
「おそようだよ、すみれちゃん」
現れたのは幸彦の姉のすみれさん。石川県の公立美術大学に通う学生で、女顔の幸彦によく似た美人だ。一週間前に帰省してきた。
すみれさんと幸彦は三歳違いだが、二浪しているのですみれさんは今大学一年だ。藝大一本で受験していたが、さすがに三浪は赦されないと、別の公立大学も受けてそちらに受かったので進学したらしい。
「今日も朝から受験勉強かい? お疲れさま」
冷蔵庫から何か出している。
「すみれちゃんはバイトじゃないの?」
幸彦の問いにすみれさんの返事は期待はずれだった。
「デモストのことなら今日はない。オフだ」
デモストとはデモンストレーターの略で、美術予備校の生徒に混じって絵を描き、生徒に手本を見せるバイトだそうだ。「ふつうは藝大生が頼まれるんだが、この春はうちの予備校に藝大合格者がいなくてなぜかお鉢が回ってきた」と昨日言っていた。
「すみれちゃんがいるんなら、朔夜の家にお邪魔させてもらえばよかった」
「姉をそう邪険にするなよ、ユキ」
すみれさんは片手に牛乳の入ったグラス、もう一方にジャムを塗った食パンを持って出てきた。
「確かに朔夜くんの方がユキ好みの顔をしているのだろうが」
「どういう理屈?」
「人は誰しも自分好みの美しいものを見ていたいだろう? その点我々は長年そっくりと言われ続けてきた互いを見ている。だがいくら美しいものでも三日も見れば飽きるとも言うしな」
幸彦がため息をついた。
「自分は美しいって言っているように聞こえるよ、すみれちゃん」
「そうか? ま、気にするな」
食パンを食べたすみれさんが豪快に牛乳を一気飲みして、ぷはーと息を吐いた。
「ところで朔夜くん、絵のモデルを――」
「駄目だ!」
終いまですみれさんに言わせず、きっぱりと幸彦が遮った。
「受験生を何だと思ってるんだ。美大なら絵を描けば描くだけ合格に近づくだろうけど、僕らは一般大学を受けるんだからね。そんな暇ない」
すみれさんがむっとしている。
「ユキには訊いてないぞ」
「ダーメ」
幸彦がテーブルの上に身を乗り出してて俺とすみれさんの間に割って入った。
「すみれちゃん、絵に夢中になるとモデルのことに気配りできないから駄目。僕はそれを学んだから、絶対駄目だね」
幸彦が俺を見た。怖い顔をしている。
「朔夜も絶対いいよなんて言ったら駄目だからね。放っておくとこの人ヌード描こうとするから」
ギョッとしてすみれさんを見た。すみれさんは大真面目に幸彦に言い返す。
「美しい時間をとどめておきたいと思うのは画家としての本能だ。朔夜くんは今美しい。描きたくもなる」
「そうやって煙に巻いて弟のヌード描いた変態だから」
「え!?」
衝撃の事実。
すみれさんは大真面目でにこりともしない。
「ユキは変声直前、恥毛が生える前が一番美しかったからあれでいい。朔夜くんはこの三ヶ月見ないうちにぐっと色気が増した。描きたい」
俺は色々知って呆然としていた。
幸彦がすみれさんのヌードモデルをやったなんて聞いたことがなかった。話からすると中学生くらいのことだろう。
そしてすみれさんが俺が変わったと気がついたことにも驚いた。変わったとしたら、それは幸彦のせいだ。ただし、三ヶ月ではなく、ここ一ヶ月の話だが。
「僕が認めません」
「ユキの許可なんかいるのか?」
「当たり前でしょ。僕が何年朔夜と一緒にいると思ってるの? もしモデルの話を僕に内緒で朔夜にしたら、朔夜のご両親に『うちの姉は僕を裸にしてモデルにしたんです。朔夜くんが危険です』って言うから」
「それは困るな。でも、そうすると我が家自体が危険だと思われるかもしれないな」
立て板に水だった幸彦の弁舌が止まった。すみれさんは更に幸彦を刺す。
「そんな姉を持つユキも大丈夫か疑われるかもしれないな」
幸彦がすねた。
「うちの姉はゲージツカぶった変態なんですってはっきり言うからいい」
「一応、芸術家の片隅の絵描きを目指しているんだが」
「そもそも僕はすみれちゃんとそのまわりを見て、よく言って一癖も二癖もある人たち、はっきり言って変態の集まりだと思ってるから」
すみれちゃんがあはははと笑って、立ち上がった。
「否定はするまい。さて、お姉様は変態仲間と会ってくるよ」
すみれさんは二階に上がってしまった。
幸彦が手にしていたシャープペンシルを転がした。
「ったく、ああ言えばこう言うんだから」
そこは似た者姉弟だと思ったが、黙っていた。その代わり一番気になっていたことを聞いた。
「ヌードの絵って、ホント?」
「本当だよ。後で見る?」
「見せてくれんの?」
幸彦はけろっとしていた。
「減るものじゃなし。それに朔夜には今更だしね」
確かに今更なのだ。ここ一ヶ月のことがなくても、幼い頃から泊めてもらって一緒に風呂に入ったり、その逆をしたりしてきた仲なのだから。
「たぶん物置だな。パネルのままだと思う。『よく描けた』とか言っちゃって、後で両親から大目玉食らって、門外不出の誓い立てさせられたんだから」
「そうなんだ」
「弟とはいえ中学生だもの」
「言われてみれば」
「だから朔夜のは本気じゃないと思う。よそのお宅の未成年者のヌードなんか描いたら、今度こそ絵を禁止されるからね」
幸彦が声を落とした。
「むしろ僕たちの仲を疑ってると思う」
「やっぱり?」
「『この三ヶ月でー』なんて言っちゃって、自分がいない間に何か起きただろうと言わんばかりだったじゃない?」
「俺もそう思った」
階段を下りてくる足音がした。
「お姉様は行ってくるぞ」
顔を出したすみれさんに俺はびっくりした。元々の美人が、化粧映えして三割増しなのだ。白のワンピースも恐ろしく似合っている。
「はいはい、いってらっしゃいませ。晩ご飯は?」
「友だちと食べるよ。じゃあ、朔夜くんごゆっくり」
「はい、いってらっしゃい」
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