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雨のち晴れのち雷(桜木-3)

 ドアの閉まる派手な音に自分の聴覚さえ一瞬麻痺した。  体重を載せて閉めたドアに身を預けたまま、動けない。 「ちくしょう」  思わず呪詛が口をつく。  ドアを閉めたとたん、胸に押し寄せたのは言いようのない後悔だった。  また則之の前でガキっぽく振る舞ってしまった。  絶対に明かしたくないと思っていたことを口にしてしまったのも、結局は則之への対抗意識のせいだ。  年上なのに、肉体的には劣っている(背も低いし、胸の厚みもないし、骨格から既に負けている)ことに、子どもの頃から劣等感を抱いてきた。その上に、(オス)としても劣っている――らしい。  肉体的な優劣など、比べる方が間違っているとはわかっていても、実際落ち込みのもとになってしまっている。  胸の底からしぼり出すような深い息をつく。  やっとドアから離れることができた。  脱力した体でベッドに腰をかけ、更に横になる。 (いったいどうしてあんな話題になってしまったんだ) (則之とは性的な話はするまいと思っていたのに) (そうだ。湊のせいだ)  考えてみれば、昨夜の湊はようすがおかしかった。  あの時既にしていたに違いない、自慰行為を。夕食後すぐのあんな時間に。  いや、食事の時から変だった。あまりにもぞもぞやっているので注意した。  あの時点で、もう――  もう体に変調を来していたのか。  何だか腹が立ってくる。しかし何に腹を立てているのかよくわからない。  湊はもう高校二年だ。  則之の言うとおり、俊介でさえその年頃には自分の慰め方は知っていた。他人(ひと)と比べると、どうしようもなく奥手であるらしい俊介でさえ、だ。  湊がいつどうやってそれを覚えたのかは知らないが、別におかしいことではない。  そんな当たり前のことになぜこんなにいらつくのか。 (あいつがマスターベーションなんて考えられない) (ほんの少し前までは、まとわりついてくるばかりだったくせに)  急に得心がいった。 (ああ――) (そうか)  息を吐いて、起きあがる。 (いつの間にか湊が俺と同じところまで成長していたのが、ショックだったのか) (俺の知らないうちに) (まだ子どもだと思っていたのに)  則之も、別に俊介を辱めようとして、あんなことを訊ねたわけではない。  自慰について教えて欲しいと頼んだ時も、ちょっと驚いた顔はされたが、則之はすぐに「いいよ」とうなずいてくれた。『そんなことも知らないのか』と嘲られるのではとびくびくしていた俊介が拍子抜けしたほどだった。  俊介が勝手に比べて、勝手に負けたと感じ、勝手にすねていただけだ。それを則之がずっと気にしていたのなら、悪いのは俊介の方だ。 (何だかまわりがみんな大人になっていく) (俺だけが変わっていない) (追いつかれて、追い抜かれて) (――いや) (こんなことを気にするのがそもそも間違っている)  自らの考えを否定する。  主たる隆人にも言われていた。 『人の成長は個人差が大きい。俊介は当主としての成長が早かった分、別の面では遅くなっていることもあるだろう。だが必要な知識ならいずれ自分で獲得したくなるし、獲得する必要があるかどうかもわかってくる。他人が知っているからと言って卑下する必要はないし、逆に人が知らないからと言って嘲ってはならない。だいたい他人と自分を比較することは無益の場面の方が多い。さまざまな人がいるから補い合えるのだからな。弟たちに接する時はそれを忘れないように』  そう教えられていたのに、なぜ比べることや優劣を付けることにこだわっていたのだろう。 『――まったくお前は細くて貧弱だな。則之のようならば当主としての威厳もあったろうに』  冷水を浴びせられたような気がした。  頭を振り、記憶の底からよみがえったひとことを再び深く沈める。  強ばる顔に無理矢理に笑顔を作り、頭の中を切り替える。 (今日は夕食の当番だったな) (何にしよう) (みんなが好きなものがいいな)  窓の外へ目をやる。  外は相変わらずの快晴だ。カーテンを揺らす風さえ蒸し暑い。 (今日もまだまだ暑いから、カレーにでもしようか) (今から仕度をしてゆっくり煮込めば、夕食の頃にはおいしくなる)  俊介はベッドを降りた。ノブに手をかけたが、開けることをためらった。  則之に子どもっぽい反応を見せたことを詫びた方がいいだろうか。  もっともこんなふうに俊介が思っている時には、則之の方は既にそんなことはまるで忘れたようすなので、言えずじまいということが多かった。 (言えそうならば言えばいいし、きっかけがなかったら仕方がない――そういうことだ)  気持ちを決めると、俊介はドアを開けた。  食堂の中から話し声がした。  外出していた湊と喜之、諒たちが帰ってきたらしい。 「何でそんな時間からさかってたんだ」  諒が呆れたという調子で言った。喜之がそれを受ける。 「俊兄に気づかれるの、当たり前だよ」 「そうそう。俺たちの体調などもちゃんと気をつけてくれてるからね」 「仕方ないじゃないか。そういう気分になっちゃったんだから」  諒の言葉に憮然とした口調で湊が言い訳している。どうも昨夜のことらしい。 「だいたい晩飯の時からだったよな?」  喜之の指摘に湊がうろたえる。 「え? あ、その……」 「そういえば俊介に行儀が悪いと叱られていたな」  則之も追い打ちをかけ、喜之が追及する。 「いったい何を考えていたんだよ」 「何って、いろいろだよ」  歯切れの悪い湊を諒が笑った。 「違う。オカズは何だったんだと訊いてるんだよ」  なんて会話だ。こんな話題の中へ乗り込んでいきたくない。  耳にするだけで恥ずかしくなるような話題が続くのなら、いったん部屋へ戻った方がいいかもしれない。  おそらくこういう俊介の性質が「奥手」と言われる所以(ゆえん)なのだろう。そしてこの家族たちは俊介のそういうところを、ときどき話題(ネタ)にしているらしい。  それならここで引っ込むのはしゃくだ。  湊が大声で叫んだ。 「内緒!」  喜之が非難する。 「何だよ、隠すなんてお前らしくない」 「うるさい。たまにはそんな日もある」 「何をむきになってるんだ?」  怪訝そうな諒に続いて、則之がこう言った。 「俺たちに知られたくない相手と言うことだろう?」 「いいじゃないか、俺が何を考えてたって」 「隠すから気になるんだ。言えよ」 「うるさいうるさい」 「俺たちに知られて困る相手なんているかな?」 「知られると問題があるってのは、湊にか? それとも俺たちか?」 「だから、ほんと具体的に誰というのはなかったんだってば」 「さっきはそんなこと言わなかった」 「誰だろう、俺たちに知られるだけで問題のある相手?」 「わかったぁ」  喜之が大声を上げた。 「俺たちの中の誰かだ」  一瞬静かになった。  喜之の突飛な発想に頭が痛くなる。  年長としての意地や湊の反応がおかしいために、不本意にも立ち聞きするはめになってしまった。  いっそ入っていって、この話を打ち切らせた方がいいだろうか。俊介が姿を見せれば、絶対に彼らは口をつぐむ。  しかし、「聞いていたのでは?」と勘ぐられるのはなお不本意だ。  ――実際、聞いていたわけだが。  ぷっと一斉に噴いた。みんなでげらげら笑っている。 「そ、それは支障があるな、確かに」 「それだけはない!」 「あるとしたら、誰?」 「湊の好みってどんな子だっけ?」 「だからそんなことないって」 「かわいいより、きれい系だった」 「そうそう。で、細い方が好みだよな」 「だーかーらー」  急に声が低くなって聞き取りにくくなった。  ぼそぼそした声が続いている。  今出ていくのが最良だろうか。  俊介は足を踏み出しかけた。  急に大声が上がった。 「馬鹿言うな! 誰が兄貴なんかオカズにす――」  俊介の理性のたがは、あっさりとはずれた。  その夜、桜木家の食卓に夕食が並ばなかったのは言うまでもない。 ――ご愁傷様―― 20031201

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