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Our memories――遠い思い出

 兄貴が風呂から帰ってきた。  隣の部屋が実は桜木家の者の「待機場所その一」なのだ。遥様を警護するために遥様の部屋の隣と、もう一カ所「その二」に俺たちは交代でつめている。というより、そこが俺たち桜木家の人間に雇い主である隆人様から割り当てられた住まいだ。  兄貴だけはずっとここだ。仮眠もこのモニタールームで取っている。そして例の襲撃以来、俺もここになってしまった。  ここはあくまでも遥様の部屋なので、俺たちの普通の生活の場は隣の部屋だ。風呂とか洗濯とか着替えとか。ちなみに、この遥様の部屋より少々狭い。  兄貴の髪から雫が垂れた。俺はハンカチを投げて渡した。 「ちゃんと乾かして来いよ。マシン壊したらどうする?」 「困る。弁償できない」  兄貴が髪をハンカチでぬぐう。  そりゃそうだ。隆人様が遥様を守るためにこれらの機器に惜しげもなく大金を投入したのは俺も知っている。長時間拘束される仕事だからとそれなりの給料はもらっているが、そんなものでは到底追いつかない。  俺はモニターを仰ぎ見る。全体を見渡してから、寝室のモニターに目を戻す。  遥様は昼寝をなさっている。遮光カーテンが引かれた薄暗い室内の中、ベッドの上でまったく動くことなく眠っていらっしゃる。昨夜も隆人様に何時間も求められておいでだった。疲れ果てていらっしゃるのだろう。  ズームで少し寝顔をのぞきたいところだが、それは兄貴から禁止されている。残念だ。 「サンキュ」  兄貴がハンカチを返してよこした。  濡れたハンカチを返されてもなぁ。  ポケットにしまいながら、ふと兄貴の顔を見た。  遥様の色の白さは特別だが、兄貴もけっこう白い。今は風呂上がりで頬がピンクだ。  学生の頃、俺の同級生の女たちに「湊の兄さんかっこいい」と言われて、悪い気はしなかった。  自慢の兄貴だからな。  頭もいいし、運動神経もいい。武術も一通りこなす上、美形と来た。  …………むかつく奴だな、同じ男としてみると。  もともと兄貴は大学卒業後、隆人様のボディガードをするはずだった。ところがその直前に分家衆から「追放された家の者をお側に置くのはいかがなものか」とねじ込まれて、その話はなくなった。  それを隆人様から告げられた晩、理性的な兄貴が窓ガラスをたたき割った。悔しそうに唇をかみしめ、握りしめた拳を震わせていた。  そんな荒れた姿を見たのは二度目だ。一度目の時のことは思い出したくもないが。  兄貴は隆人様に忠誠を誓っている。俺たちもそうだが、兄貴のはたぶんレベルが違う。だから、遥様に対して犯罪行為も躊躇なくできるのだ。  子どもの頃からあこがれていたのは知っている。俺の目から見ても隆人様はかっこよかったし、賢い兄貴は隆人様から可愛がられていた。 「お前たちには俺を助けてもらわなくちゃ」  隆人様が笑顔で俺たち兄弟にそう話しかけてくれたのは、俺が六歳くらいのことだったはずだ。兄貴は十か十一で、隆人様はたぶん大学生だったろう。  あの時はまだ自分の未来がどうなるかなんて、まったく考えもしなかった。考えるわけないよな、幼稚園児だから。  待てよ。  あの時、俺たちの他に誰かいたような気がする。  いったい誰だったんだろう。 「なあ……」 「ん?」 「子どもの頃さ、隆人様に『お前たちには助けてもらわなくちゃ』って、言っていただいたよな?」  兄貴が目を丸くした。そして、すぐ顔を歪めて、視線をモニターに戻した。  俺は返事を待ったが、兄貴は何も言わない。  なぜ答えないんだろう。 「なぁ、そうだよな?」  兄貴がため息をついた。 「ああ」 「あれ、いつだ?」 「俺が小五の時の正月だ。本邸で」  しっかり覚えているくせに、どうしてすぐ答えなかったんだろう。 「あの時、俺たちの他に誰かいたよな。どうしても思い出せないんだけど、兄貴なら覚えてるだろう?」 「忘れた」  俺の方をまったく見ずに兄貴は答えた。  俺は思いきり顔をしかめてしまった。  この嘘つきめ。  嘘を付くならもう少しうまくやれ。 「それで俺が納得したなんて思ってんじゃねえよな、兄貴」 「俺の弟はそんなに馬鹿じゃない」  俺は言葉に詰まった。  兄貴が俺の方を向いた。 「お前が忘れているというのなら、そのままにしておけ。俺はあの時のことを思い出したくない。少なくとも今はな」  また兄貴はモニターに目を戻してしまった。  何も訊けなくなる。  なぜ「今」という限定を付けたのだろう。  今、いま。 「遥様が目を覚まされたようだぞ。御用をうかがってこい」  兄貴の声に俺は我に返ってモニターを見上げた。  身を起こした遥様がベッドから降りようとなさっていた。  俺は寝室に向かうためにモニタールームを出る。  出がけに一瞬ちらっと兄貴に視線をやった。  兄貴はモニターも見ずに視線を下に落としている。  兄貴らしくない。まったく兄貴らしくない。  俺の問いかけが兄貴をあんなふうにしてしまった。  廊下で遥様が俺を見て、ちょっと顔をしかめられた。 「トイレに行くだけなんだから、いちいち出てくんな」  きれいな顔で、相変わらずの言葉遣いだ。 「モニタールームを追い出されたので」 「の・ぞ・き・部・屋」  トイレのドアを開けながら、遥様が俺の言葉を訂正なさる。  遥様からすれば生活のすべてを見られているのだから、そうおっしゃる気持ちもわかる。  遥様はトイレのドアを閉められたが、モニタールームからはトイレの中も監視できるのだ。  最近は遥様が荒れたりなさらなくなったので、前ほど徹底した監視は行っていない。  気になって、俺はモニタールームをのぞきに行った。  兄貴はまだ考え事をしていた。 「おい」  声をかけると、兄貴はひどくうろたえた顔で俺を見た。 「何?」 「ぼうっとするなよ。いくら俺がいるからって」 「ああ、すまない」  兄貴は座り直した。  トイレから水を流す音が聞こえた。ドアが開くと、遥様がモニタールーム前の俺を見つけて、言った。 「湊、水くれ。喉渇いた」 「はい、ただいま」  キッチンに向かう俺に遥様がついておいでになった。  俺はグラスに冷蔵庫から出したミネラルウォーターのボトルを傾ける。 「桜木さんと喧嘩でもしたのか?」  俺の横で遥様がお訊きになった。俺は首を振る。 「いいえ。なぜ?」 「追い出されたなんていい方をするからさ」  俺が差しだしたグラスを遥様は受け取り、一気に水を飲み干す。  そして、深いため息をつかれた。 「明後日か……」  どきっとした。  明後日。  遥様は凰としての披露目に出られる。  そこで、鳳たる隆人様とセックスする。そのために遥様は隆人様から調教されたのだ。男とのセックスを悦びと感じるように。 「ありがと」  遥様がグラスを返してよこされた。  それからうっとうしそうに髪をかき上げられた。 「ったく。何とかしてくれよ。はさみないのか、はさみ。自分で切るから」  俺は慌てて首を横に振った。そんなことをされたら俺たちが隆人様に殺されてしまう。  隆人様は、遥様を完璧な形で一族の前に出したいのだ。  最高のパートナーであるべき凰として、遥様を一族の前に出す。  かつて凰を阻止された隆人様の分家衆への報復なのだろう。  それならば遥様のこの髪の毛も整えられるはずだ。まだ、その件について俺は聞いていないが、兄貴は隆人様から何か聞いているのかもしれない。  そこで思い浮かんだのは克己様だ。加賀谷東家の跡取りでいらっしゃるはずなのに、家を飛び出して美容師をなさっている。兄貴と同い年だ。  ちっと遥様が舌打ちをなさった。 「俺の髪の毛なのに、俺の自由にできないのかよ。俺の体はすべてあの野郎のものだってことか。ふざけんなよ」  言葉は荒いが、別に怒っているというわけではないらしい。その点に関してはあきらめの境地に達しておいでなのかもしれない。  遥様はご自分の姿形に本当にこだわると言うことのない方だ。  洋服の好みも地味すぎるくらい地味だし、髪型も適当で普段はろくにブラシも通されない。  ご自身も着るものなどにこだわりのないはずの隆人様が遥様の写真を指さして「何とかしろ」とお命じになるくらいいい加減だった、はっきり言って。  今、兄貴や俺が選んだものを着ておいでの遥様は、その写真の人物と同じとは思えないほどきれいだ。着るものでこんなにも変わるのかというほど、美しい。  この遥様が披露目用の純白の着物と袴をお召しになったら、どんなに美しく見えるだろう。三年前から用意されていたそれらはやっと日の目を見るのだ。  しばらく遥様のお相手をしてからモニタールームに戻ったとき、俺は遥様の髪の毛のことを訊いた。  兄貴は俺から視線をそらしてから、ゆっくり元に戻した。 「明日、隆人様が克己様をお連れになるそうだ」 「え?」  俺は兄貴の顔をまじまじと見つめた。 「東《ひがし》家は遥様に大反対しているじゃないか。綾様を凰にしたがっていたから」 「ご当主直々に頼まれて断れる分家の人間はいないぞ」 「それはそうだけど……」  兄貴がふっと息を吐いた。 「克己様はご自分の真意を他人に悟らせないお方だ。俺ごときには理解はできない」  兄貴にしては投げやりな言葉だった。隆人様に敵対するおそれのある者が何を考えているかを読んで、先に手を打つのも仕事のうちなのに。  休憩時間に隣の部屋へ行った。  則之がいて、俺は克己様の話をしてみた。  則之はひどく驚いた。 「あの方をここへ入れるのか? あの方の店へ行くのではなく?」 「ああ、連れてくるらしい」 「あの方を使うくらいなら、外の人を雇った方がいいんじゃないか?」 「どうして? 下手なのか?」  俺の問いに則之が苦笑した。 「腕は相当なものらしい。詳しいことは知らないけど、店は流行っているそうだ。ただ問題は……」  則之が言葉を切ると俺の方に身を寄せ、耳元に小声で言った。 「あの方は西家と通じているという噂がある」 「ええーっ」  大声を上げた俺に則之が口に指を当ててしーっと言った。 「こんなこと俊介に耳に入ったら、俺たちが危ない」 「どうして?」 「俊介は克己様と仲がよかったじゃないか」 「そうだっけ?」 「仲良かったぞ、子どもの頃はすごく」  俺より年上の則之が言うのなら、そうなのだろうか。 「天敵とも言うべき西家と東家を近づけたのは、克己様だと言われているくらいだ。まったく隆人様もなめられたものだ。分家の第一と第二のお家に凰の阻止を企まれているんだからな」 「じゃあ、この間の襲撃は……」 「西家が手を回したらしい。証拠はさすがにまったく見あたらないが、たどっていくとどうもそういうことらしい。まあ、あの家がしっぽをつかませるようなドジはしないだろう。我が身を可愛がることにかけても分家衆第一だからな」  則之が「とにかく」と言った。 「克己様は要注意だ。俊介と並び立つ聡明な子どもとして、本家の覚えがめでたかった方だからな。あれだけ隆人様に可愛がっていただいたのに、恩知らずと言うしかない」  あっと思った。  突然目の前に正月の光景が浮かんだ。  競い合うかのように華やかな晴れ着の少女達、幼いながらも袴の正装に身を包んだ少年達。そんな子ども達がカルタや双六あるいはトランプといった室内での遊びに興じていた。  そのようすを楽しげにごらんになる隆人様がいた。  その隆人様のもっとも近くにいるのは兄貴と、克己様だ。  トランプゲームの神経衰弱を五人ほどの子ども達でやったら、この二人がほとんど取ってしまったのだ。次々と連続して同じ数字のトランプが開かれていく様は、まるで裏の数字がこの二人には見えているかのようだった。 「驚いた。すごい記憶力だな、二人とも」  隆人様はにこにこしている。 「湊もがんばったが、相手が悪かったな」  声をかけていただいて、俺はすごくうれしかった。それにこの二人にかなわないのは初めからわかっていた。 「こんなに優秀なみんなに囲まれて、俺は本当に恵まれているよ」  いとおしむような眼差しが俺たちに向けられると、胸が熱くなった。隆人様に認めていただいたのだ。本家のご長男であり、次期当主であるお方に。 「お前たちには俺を助けてもらわなくちゃ。これからもよろしく」 「ありがとう存じます」  克己様と兄貴が声をそろえて、お礼を言った。俺も慌てて頭を下げた。  その時、兄貴も克己様もうれしさに頬を赤らめていた。  どうして忘れていたのだろう。  あの時のあの胸の熱さは、今思い返しても涙が出そうなくらいなのに。  あの二、三年後に起きた出来事がなければ、俺たちは隆人様にもっと近いところで使っていただけたのだろう。  ガラスを叩き割った兄貴の悔しさの何分の一かは俺にもあるのだ。  そして、克己様に対する兄貴の複雑な思いも、ほんの少し理解できた。  ともに隆人様にお仕えするはずだったのに、追放された身で十分にお仕えすることもかなわない兄貴と、今や隆人様と敵対している克己様。  幼い頃の思いなど、どこかへ置いてきてしまったようだ。  俺は隣の部屋を出た。  今俺たちにできることは、隆人様のために遥様をお守りすることだけだ。そして、遥様に無事に披露目を迎えていただき、隆人様の凰となっていただくこと。  すべては明後日。  明日の克己様のことはあくまでも通過点にすぎないのだ。  遥様の部屋のドアの前で手のひらで頬を叩いて気合いを入れる。  それから笑顔を作り、ベルトにつないだチェーンをたぐって鍵を取りだした。 ――了―― 2002/01/07

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