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A Stray in Darkness――迷闇 ヤミニマヨフ
車に乗り込み、ドアをロックした。
そのままハンドルに腕を置き、額を押し当てる。胸の底から息を吐き出す。
このままぐずぐずと体が崩れていってしまいそうだ。
以前から自分の言動が隆人に何かしらのいらだちを与えていることは気がついていた。しかし、なぜそうなってしまっているのかが俊介にはわからない。
(以前と変わらない気持ちでお仕えしているはずなのに、何がお気に召さないのだろう)
これは弱音だ。家族の前では決して漏らせない。それが則之であってもだ。
俊介にとって長年隆人に気に入られてきたという自負は何物にも代え難い宝だ。それが曇ってきたかもしれない、壊れてきたかもしれないなど、認めたくない。隆人を不快にさせているかもしれない現実は恐ろしすぎる。
自分自身がこの事態に素直に向き合えないのに、年少の家族たちからいろいろと評されたら、自分がどんな態度を取るかわからない。恐ろしく子供じみた反応をしてしまうかもしれない。
ただ、この揺らぐ気持ちは吐き出した方が楽になれるという自覚はあった。
このような弱音を吐ける相手は、実質的な後見である桜谷隼人くらいだ。が、隼人は隆人同様多忙であるし、今の俊介は二十四時間、仮の凰たる高遠遥の側にいなければならない。会って話を聞いてもらうことなどできない。それに新たな命令の概要を聞かされた以上、遥の披露目が終わったらすぐにそちらの準備に入らなければならない。ますます隼人と会う機会はなくなるだろう。
(披露目の後にでもお願いすることができれば……)
だが、公式な儀式の折りに鳳の側近中の側近に時間を割いてもらうなどできるのだろうか。
軽く息を吐いて座り直すと、キーをイグニションに差し、回した。
今の俊介の任務は高遠遥の世話と護衛だ。遥は隆人の正式な凰となる。なってもらわねば困る。
連れ戻した当初、本当に披露目を迎えられるのだろうかと危惧した。遥は隆人に対して強い反抗心を持っていて、俊介が初めて遥と出会った頃より、ずっと頑なでふてぶてしくなっていた。ねじ伏せることなど簡単にはできまいと直感した。
高遠遥は容姿こそ大人しげだが、その中身は驚くほど直情径行な男だ。利害のない立場から眺めていたのなら、遥のアンバランスさは興味深い。
しかし、俊介のスタンスははっきりしていた。
(遥様は仮の凰だ)
(凰様には鳳様に服従していただかなくてはならない)
乱れる遥の感情を冷静に観察・分析し、接した。常になだめるのではなく、あえて感情を逆撫でしたこともある。そうやってストレスを与えることで、屈服させやすくする意図があった。
実のところ遥にも精神的に参っている時期はあったと思う。であるのに遥は常に攻撃的だった。そして体はともかく精神面では一貫して隆人を拒絶し続けた。側にいる俊介が時に遥のあまりの強情さに逆にストレスを覚えたほど、遥は精神力の強い人間だったのだ。
しかし高遠遥は変わった。
確かにねじ伏せることはできなかった。遥はあくまで自分のためにどのような選択をするのが最良か、という損得の計算で凰になることを受け入れただけだ。結果として本人が納得して受け入れるというもっとも望ましい形になった。今の遥は更に一歩踏み込む形で、積極的に隆人と関わろうとしてくれている。これは予想を超えた事態だ。
遥の決断の理由が損得であろうと、命への執着であろうと俊介には関係ない。俊介にとって隆人がすべてで、遥のことは二の次だ。ただ、隆人のために必要だから、高遠遥には何としても正式に凰になってもらわなくてはならない――俊介の本音は常にそこにある。
三年前に遥を見いだしてしまった俊介は、この人選に責任を感じていた。無論決定を下したのは俊介ではない。それでも自分が一番始めに高遠遥に接した人間なのは間違いがない。
分家などから、逃亡し続け、今も反抗的な高遠遥を「最低最悪の仮の凰」と嘲笑されていたことは知っている。俊介自身もこの男ではない方が良かったのではと気持ちが揺らいだことはある。
だからこそ必死だった。何としても高遠遥を凰にしなくてはならない。篤子の件で鳳として汚名を負うことになった隆人のために、ふさわしくないように見える高遠遥を、最高の凰として迎えなければならないのだ。そして、その限りなくゼロに近いと思われたことは現実の物になろうとしている。
あとは遥が無事披露目で証立てを成し遂げてくれればいい。あと少しで俊介も胸をなで下ろすことができる。
俊介が遥に対してしてきた数々のこと――略取も監禁も犯罪だということはわかっている。が、これらはすべておのが主、加賀谷隆人のためだ。どれも隆人のために必要なことだっだ。後悔はしていない。おそらく今後も俊介がこのことを悔いることも迷うこともない。
途中で携帯電話にメイルの着信があった。
マンションの駐車場に車を止めてから、ポケットから携帯電話を取り出した。
送信してきたのは、桜谷隼人だった。
『仮の凰様のご整髪は御披露目前日の土曜と決まった。東家ご嫡男を隆人様御自ら連れて行かれる。この方は西家と通じているとの情報がある。隆人様がおいでとはいえ警戒はを怠るな。心して当たれ』
液晶のバックライトが消え、文字が読めなくなって初めて我に返った。
(克己様がおいでになるのか)
胸の奥の遠い記憶がかすかに反応をしている。思い出してはいけないと思っても、勝手に情景が脳裡に広がる。
小学校の四年生くらいだったろうか。別邸の庭で度胸試しをかねて克己とともに木登りをした。隆人が根本から見上げているのを感じながらのぼった。気がつくとついつい一生懸命になりすぎて克己を遠く引き離してしまった。もとより五家の俊介の方が分家の克己より運動神経はすぐれている。だからこそ俊介は加減しなくてはならなかった。同じくらいの力量に見せるべきだった。常日頃から父には分家に対して出過ぎたことをするなと厳しく言われていたのをうっかり忘れてしまった。
『そろそろ降りてこい』
隆人に命じられて俊介は慎重に降りる。そのようすを既に地上に戻った克己がしょんぼりしたようすで見つめてくる。
申し訳ないことをしたと思った瞬間、手を滑らせた。とっさに脚を枝に引っかけ、何とか落下を食い止めた。枝にぶら下がった状態から姿勢を立て直し、残りを降りた。
隆人に叱られた。
『俊介、降りるときに気を散らすな。木登りは降りる方が難しいと何度も言っただろうが。こちらの肝が冷えた』
『申し訳ございません』
恥じ入るしかなかった。桜木の仕事は失敗が許されない。そのたった一度の機会にし損じることなどあってはならない。どんな場合でも今すべきことに集中していなければならなかった。
横から克己が顔をのぞき込んできた。
『やっぱり俊介はすごいよ』
克己は微笑んでいた。
『僕だったらたぶん手を滑らせたらそのまま落ちたと思う。それをとっさに木にぶら下がってしまったのだもの。そういうことができるから、高いところまで上れるんだよね。さすがは桜木の跡継ぎだ』
思いもしない賞賛に顔が赤くなる。
『克己の言うとおりだな。五家である以上、圧倒的な体力と不測の事態への対応は必須だ。克己もいくら度胸試しといえども、意地を張らず己の体力に見合った高さでやめたのはよい選択だった。二人ともよくやった』
笑顔の隆人の両手で俊介も克己もそれぞれ頭をなでられた。
とてもうれしかった。隆人にほめられたことも、克己が自分をきちんと認めてくれることもうれしかった。あのときの手の重みや温かさ、乱される髪の感触は今も残っているような気がしてくる。あの頃は世界はとても単純で、思い出はふんわりと暖かかった。胸の底から幸せな気分が広がり、心を満たしていく。
はっと我に返った。
いつの間にか抑えていたはずのやわらかな記憶が連鎖的によみがえりそうになっていた。そんなことをしたら愛おしい思い出の輝きが現実に汚れてしまう。
俊介はうろたえ、慌てて思考を「現在」に引き戻した。
今の克己は分家の跡継ぎとして隆人と対立している。いや、表だって対立していない分、かえって始末に悪いかもしれない。
『腰が低くそつなく振る舞っておいでだが、ポーカーフェイスなので心の内を察することがさせていただけけない』
去年、隼人の弟で剣技の師である桜谷隼也 がそう評していた。感情の起伏が乏しいのか、それを表に出していないだけなのか。しかも以前から西家と影でつながりがあると言われてきた。ついにそれが断定に近くなったらしい。
そのような要注意人物を仮の凰の側に持ってくるなど危険だ。隆人は相手の手の内を探る意図があるのかもしれないが、披露目前の大切な身は危険から遠ざけたい。護衛ならば当然考えることだ。
そのとき、気がついた。
凰を守る義務は鳳にある。仮の凰は必ずしもそうではないが、遥の場合隆人にとって二度目の仮の凰だ。阻止などされるつもりはないだろう。
(克己様を探るおつもりなのか)
(それとも純粋に遥様をお部屋からお出しになりたくないだけなのか)
(ならば別の美容師なり理容師を呼ぶこともできるだろうに)
突然手の中の携帯電話が鳴り出した。
電話番号の確認もせずに慌てて出ると――
『何を車の中でぼーっとしている。隙だらけだぞ』
桜谷隼人の声だった。
俊介はまず謝ってから、隼人に言った。
「少しご相談したいことがあるのですが」
隼人が沈黙した。
ずいぶん長い間のように感じたが、こちらから促すのは控えた。
『わかった。車の中にいろ』
通話が切れると、物陰から隼人が姿を見せた。まっすぐこちらへ向かってくるのは、この駐車場は現在完全に桜谷の監視下にあるからだろう。
携帯電話をしまいながらドアロックをはずす。隼人が助手席に乗り込んできた。
「車の中で考え事とは、お前らしくないな。疲れているのか?」
隼人の言葉にうなだれる。
「いえ、疲れていると言うことは……」
濁してしまった語尾をごまかすために、顔を上げた。
「先ほどのメールで、昔の克己様のことを思い出しておりました」
「ああ」と、隼人がうなずいた。
「あの方も変わられた。お前と同じだ」
驚いて隼人を見つめる。隼人の口元には薄く曖昧な笑みが浮かんでいた。
「当主や嫡子は変わるものだ。当主が感情のままに動いては家は立ちゆかないからな。これは避けようがないし、これでいいんだ」
他人に「変わった」と言われても、自分ではわからない。俊介には自分が変わったという意識はなかった。だが隼人がそう言うのなら、変わったのかもしれない。
確かに隼人は俊介のことをよくわかっている。桜の当主同士として対等と言われてはいるが、隼人は俊介の師であるし、そもそも十四も年上だ。幼い頃からずっと見守られてきた。俊介の考えそうなことなど、すべて見透かされているかもしれない。
隼人の顔から笑みが消えた。
「新たな命を、お受けしてきたのか?」
突然まったく違う話題を振られ、一瞬理解できなかった。隼人は俊介の返事を待たず、先を続ける。
「俺はお前を使うことは反対した。他に替わりがないと隆人様はおっしゃったが、今のお前は一族にとっても替わりがない。その桜木の当主自らを密花《ひそか》に使ってしまうなど考えられない。せめて別の者をお選びくださるよう進言したが、結局聞き入れてはいただけなかった」
「命令に従うことには、何の異論も不満もありません。別の者と言っても今の桜木には本来の意味での密花はおりません。ならば七人のうちの誰かひとりをと隆人様がお考えになり、それが俺であっても特におかしくはないでしょう。俺としては他の者を密花にするより、よほど気が楽です」
返した言葉に隼人が顔をしかめる。
「存在しない密花にわざわざ当主を当てるくらいなら、密花は使わない方がいい。別の手段はいくらでも考えられる。そもそも密花は結果が出るまでに長い時間がかかる。そしてお前は桜木の当主だ。隆人様はそのお前を長くお手元から離しておかれるべきではない」
隼人の言葉をどう理解していいのかわからない。そこまで特別な存在なのだろうか。しかし、俊介は口を挟まなかった。
「花守がつこうと、園丁がつこうと身の安全は保証されない。危険は自らの才覚で振り払わなくてはならない。お前を選ぶ理由は隆人様がお前の実力を認めていらっしゃるからこそだが、武道の腕前と密花に要求される能力はまったく別物だ。それはお前にもわかるだろう?」
返答できない。肯定すれば己の未熟さを認めたことになり、否定すれば隆人の決定に疑義を挟んだことになる。
それは隼人にもわかっているのだろう。答えは求められていないようだ。
「本当は、隆人様は俺の言うことははわかっておいでなのかもしれない。この件に関してはいつもより強い語調になられる。しかし望んでおいでではないことをあえて命として下されては、後々隆人様ご自身をお悩ませするおそれがある。だからこそお止めしているというのに、そこをご理解いただけない」
何をそこまで隼人が案じているのかが、俊介にはわからなかった。ただ、ひどく隆人の判断が誤りではないかと心配していることはわかった。それならば理解できる。
隼人の顔が険しくなった。
「世話係を前にして失礼は承知だが、俺は遥様が披露目を無事に終えることに関して、楽観はしていない。あの方は俺たちと根本的にお育ちが違うのだ。一族外ということを軽視してはならない」
急に隼人の声の調子が落とされた。
「最悪、隆人様は仮の凰様ご自身に阻止されるのではとまで、考えている」
聞き捨てならないことだった。
「遥様が隆人様を裏切ると言っているのですか?」
「裏切るも何も、加賀谷とあの方は何の関わりもなかった。一方的にこちらの都合で、あの方の自由を奪い身を傷つけてきたのだ。もとより信頼関係のない間柄に裏切りなど成り立ち得ない」
一言も返せなかった。確かに俊介自身が遥に対して犯罪行為をしたという自覚があるではないか。それをしておいて、相手が最後までこちらの都合よく動いてくれるとは限らない。遥は将棋の駒ではない。自分で考え、行動する人間だ。
「万一隆人様が正式な凰をお迎えになれなかった場合、今まで多少は上向いていた隆人様の運気が下向くおそれがある。その状況で使命のためにこちらとの直接の連絡を絶つことは非常に危険だ」
隼人らしくないと思った。なぜ、これほどまでに不安を訴えるのだろう。
主たる隆人の心配ならばわかる。が、隼人は俊介の心配もしてくれているようだ。だが、主と同列に心配されるのは違和感がある。
隼人は従者の長であるから、また俊介たち桜木の後見であるから、心配してくれるのかもしれない。
が、従者にとって主の下した命令より価値のある言葉はない。与えられた任務を遂行するために従者は命を惜しんではならない。それに俊介の命など、元々あってなきが如きものだ。
いつの間にか伏せていた顔を上げ、隼人を見つめた。
「要するに遥様にはどうしても凰になっていただくしかないと言うことですね」
隼人が鼻白むのがわかった。
「仮の凰の世話係は、お世話をした方に証立てを遂げていただき、凰様となっていただくことが第一。証立てをお果たしいただけなければ、いかなる理由・原因があったにせよ敗北であり屈辱です。遥様がそのようなことを選ばれたのなら、桜木が一族へ戻していただくことなどとうていかないますまい。すべては遥様次第といっても過言ではありません」
隼人は何も言わない。
「今のところ遥様は隆人様の凰となることを受け入れておいでです。そのお気持ちが覆るようなことがあったら、更にお心を変えていただくために俺はできることをします」
「俊介」
咎めるような口調から逃げたくなった。
「すべてを捧げてお仕えするのが従者と教えられて育ちました。少なくともこの教えは間違っていないと思います。隆人様あっての俺です。隆人様に凰をめとっていただくためには、俺の持っているすべてを投げ出しても惜しくありません」
深いため息を隼人につかれた。一瞬既視感を覚え、俊介はうろたえた。
「従者として、その心がけはとても良いと思う」
隼人が静かに口を開いた。
「だがな、俊介。お前は当主だ。お前にすべてを投げ出されたら、お前の家の者達はどうすればいい?」
どうしようもない脱力感に見舞われた。自分の身がシートに沈み込むのを感じる。
喘ぐように口で息をした。しかしその吸った息が胸まで届かない気がする。苦しい。
隼人の言葉は容赦なく耳に流れてくる。
「お前が誰よりも隆人様のことをお慕いし、隆人様のために凰をお迎えするべく尽力してきたことは一族中に知られている。生まれながらに主を定められる五家に生まれ、お前ほどまっすぐ――御目見得の時の気持ちのまま主に仕えてきた従者はいない。隆人様もそのことをよくご存じだ」
こうやって誉められるとき、続くのは必ず否定の言葉だ。父や祖父がそうだった。そして先ほどの隆人にも、たった今隼人にも同じ言い方をされた。
「だが、お前は――」
後の言葉はもう耳に入ってこなかった。聞くだけ無駄だ。俊介には隼人の言わんとしていることが理解できない。
隆人の言葉も理解できなかったが、まだ隆人の前では俊介は存在を許されていると感じられる。
しかし隼人の求めるところはわからない。要求のレベルが高すぎるか、意図を理解できない俊介が愚かのいずれかだ。
肯定され、肯定され、最後に全否定される。今まで良しとされていた部分さえすべて打ち消すほどに、俊介は欠点の大きな人間であるらしい。隆人のために良かれと思い、すべてを注ぐことさえも、致命的な過ちを含んでいるらしい。
「大丈夫か」
肩をつかまれた。目の前には心配そうな隼人の顔がある。
心配されることが苦しい。間違いを正そうとしてくれているのに、指摘の意味がわからない自分が、どうしようもなく無価値に思える。ここに在ること自体がいたたまれなくなる。
思わず震える唇で詫びた。
「もうしわけ、ありません」
その瞬間、隼人の顔が強ばるのがわかった。それはほんの一瞬で消え失せ、たちまち困惑とも憐れみとも怒りとも悲しみともとも取れるような表情が隼人の顔の上に広がった。
また、返すべき反応を間違ったらしい。
隼人が首を振った。
「謝るな、俊介。お前は何も悪くはない。俺が言いすぎた。すまない」
いたわりの眼差しに耐えられず、俊介は視線を下へ逃がした。
「お前を見ていると、つい要求が高くなってしまう。おそれおおいことながら、隆人様も同じようなお気持ちでいらっしゃるのだと思う」
頭の上に隼人の手のひらが載せられたのを感じた。
「一族が血筋や家にこだわるのは、それが綿々と続いてきたことへの畏怖と感謝の気持ちが込められている。今の自分があるのは、血のつながり家のつながりが途絶えなかったからだ。不思議だと思わないか? 今ここに在ることを先祖や周囲に感謝し、次代にその恩を返す。当主はこれが特に大切な仕事だ。今はそのことを覚えていてくれればいい。それ以外のことは忘れてくれ。すまなかったな」
頭から、手がどけられた。
「そういえば相談があると言っていたな」
俊介は口元に笑みを作り、首を振ってみせる。
「いえ。たいしたことではありませんから」
「すまない。俺が先に切り出したから、話しにくくなったんだな? 遠慮しなくていいんだぞ」
「いえ、本当にもう……」
隼人は納得していない顔だった。笑顔のまま話を変える。
「もう遥様のところへ戻ります。湊たちも待っているでしょう」
「そうか……。そうしてくれ」
まだ引っかかりを覚えているらしい隼人とともに車を降り、その場で別れた。
エレベータの中で俊介は考えに沈んでいた。
隼人はわかっていない。俊介が先祖に――両親に感謝できるわけがないではないか。先代桜木一同の犯した罪に、新当主として桜木から彼らを除外したのは俊介だ。彼らは自らの主隆興に反旗を翻しただけではなく、隆人の従者である俊介たちまで命の危険にさらした。隆人に対して弓を引いたも同然。更に言うならば隆人に敵対する者達に助力を与えたに等しい。
だから俊介は闘った。隆人と自分の弟や従弟達のためにだ。子としての情より、主への忠を採った。
いや。両親より隆人を選んだのはそれだけが理由ではない。
歯をきつく噛みあわせる。手のひらに爪が食い込むほどに拳を固く握りしめる。
そうしなければ、正気を保てない。無駄な感情の波は抑え込まなくては、生きていられない。何かに没頭し、思い出したくないことはすべて意識の上から閉め出して、やっと――
軽いショックののちケージは止まり、ドアが開いて視界が開けた。同時に体の不自然な緊張も解けた。
(遥様には何としても凰になっていただかなくては)
既に俊介は普段の姿に戻っていた。
ケージから踏み出すと、背筋を伸ばし、足早に仮の凰に与えられている部屋へ急いだ。
――迷闇 了――
20040730
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