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An Ordeal――試練

 隆人が言った。俊介は己の命を粗末にしすぎると。 「自身の命を俺のものと言い、俺に捧げると言う。これは一面正しいが、俊介が桜木の当主であることを考えればあまりに短絡的で視野が狭い。こうなったのは、俺たちにも責任があるのかもしれないな」 「はい、おっしゃる通りかと存じます」  隼人も隆人と同じように考えていた。結局俊介の傷ついた心を癒してやることはできずにいるのだ。それどころか助けているつもりが助けになっていなかったことも考えられる。  隆人の言葉は続く。 「他のことは完璧とさえ言えるのに、家の存続のこととなると思考が停止するらしい。なぜそんなことになってしまったんだ。まともな家庭でなかったことが影響しているのか」  可能性はある。  俊介の中に温かい家庭のイメージはないかもしれない。家庭を築きたいという望みが希薄なのではないか。ひとりの女性と結ばれて、我が子を腕に抱く――当たり前のことを自分とは無縁と考えているのではないか。  桜木は他家と比べ、当主の役目が非常に重い。隼人の父は確か桜木の当主のことを加賀谷存続のための人柱と評した。他の者に汚れを及ぼさぬため、なしたことすべてを背負って生きていかなくてはならない。中にはそれに耐えられず、早々に精神を病んだ者もいたと聞く。同じ親のもと生まれ育った弟であっても、立場が異なるために兄の苦しさは理解できない。だからこそ支えてくれる相手が必要で、通常は妻がその役割を担う。桜木本家の当主の婚姻に加賀谷本家の当主が関わる理由の半分はこれだ。  それほどまでに過酷と言われる桜木の当主をわずかに十二歳にして継がなければならなかった俊介が、負うべく定められた重い役目を前に、深い孤独を抱えていたとしても何の不思議もない。もしかすると、それは俊介の心の中で底知れぬ暗黒の深淵となっていたのかもしれない。  隆人が首を捻る。 「俊介は桜木を一族に戻すのが望みと一貫して言い続けているが、本当にそうなのか。最近のあいつを見ていると疑わしく思えるぞ」 「望みと本人も信じておりましょう。が、本人にも気づかぬところで異なるものを望んでいるおそれはございます」 「そうか。そうだな。本人は気がついていないのだろう。本当は桜木の当主でいること自体に倦《う》んでいるのかもしれない」  ありうる話だ。人の心は迷路だ。日の当たる部分とそうでない部分がある。ねじれた奥底に何が潜むかはわからない。口にする願いとは裏腹の闇をはらんでいないとどうして言える。 「当主にあるまじき振る舞いがみられるのは、そのせいか」 「と、仰いますと?」 「俊介には次代へ桜木をつなぐ意志が見られない」 「確かに」  そう答えながら、つなぎたくないのかもしれないと思う。  俊介は桜木の当主らしくあれという名目で実の父俊明から日常的に厳しい折檻を受けていた。桜木本家の長男と生まれ、跡継ぎである以上立派に務めが果たせなくてはならない。だから厳しく育てるのだと、俊明は言い張った。  そんな父の物言いに俊介は「長男でありさえしなければ、跡継ぎでさえなければこんな目には遭わないのに」と考えたことはなかったか。  桜木の当主となることが苦痛しかもたらさなかったのならば、当主でいることや桜木家を存続させることに意義や喜びなど感じられるだろうか。弟なり、我が子なりに次の当主たらんことを求められるだろうか。  今の俊介はぽっかりと空洞を抱えた存在かもしれない。  隼人には俊介が隆人に仕えるという目的だけに生きているように見える。桜木のことなど本当はどうでもよくて、ただ隆人の命じるまま働いていたいだけなのだ。  同時に実の親に虐げられていた命を大切とは思えずにいるようだ。使命を果たす中で命を落としたとしても、それで満足なのだろうか。  俊介には生きることが苦しすぎるのか。  息をするだけで精一杯なのだとしたら、周囲の思惑などはかれないだろう。  そんな危うい均衡の上に立っている者が「その生き方は間違っている」と責められたとしたら? その者はいったいどのように生きれば、周囲を納得させることができるのか。  俊介の状況を我が身に置き換えたとして、隼人ならばどのように対処できたのだろうか。そもそも正解と納得できる道はあるのか。  自分なりの正解ですら導き出せないということに、愕然とした。いつの間にか寒気を覚えていた。  震えが止まらない。  俊介には自分の考えを聞かせてきた。きつく叱ってしまったこともある。良かれと思ってしたことも、俊介の育ってきた環境とはあまりにかけ離れていなかったか。  俊介からすれば無い物ねだりのような隼人の小言は、知らず知らずに俊介を追いつめていたのではないか。  密花を受け入れた俊介の気持ちが察せられた。  ぎりぎりのところで命を削って務めを果たすような過酷な命令を、俊介は受けた。無意識に自らの死に場所を求めているのかもしれない。自らの本当の望みをそれと気づかぬまま、危険な状況へ足を踏み入れていったのかもしれない。  心臓を冷たい手に捕まれたような気がした。息苦しさに、めまいがしそうだ。 「隼人、どうした」  隆人の声に顔を上げる。 「無事に戻ってきますでしょうか?」  隆人が眉を寄せた。それから憮然としたようすで答えが来る。 「本人が無事に帰ってくると言った。俺はそれを信じる。どんな目に遭おうとも、あいつは俺に誓約したことを違えるような奴ではない」  隆人が声高にしゃべるときは、不安を抱えているときだ。子どもの頃と変わらない。自らの不安をかき消すために、ことさらに強い口調になるのだ。これ以上隆人の心を乱すわけにはいかない。 「さようでございました」  静かにうなずき、隆人の言葉を肯定した。一瞬、隆人の表情が気弱げに歪んだ気がした。  もはや事態は隆人の手さえ離れたのだ。敵の懐に身を投じた者に、もう手を貸してやることはできない。後は俊介自身の運と才と機転次第だ。  そう考えて、すぐに否定した。  俊介はこれらをすべて備えている。その上で策略を巡らせる知恵も、情に流されぬ冷徹さも忍耐力もはったりも、そして人目を引くほどの容姿も備え、まさしく密花にふさわしい。  隆人から離れた俊介が闘わなくてはならないのは、むしろ自分自身だ。  自らの裡に潜む死への誘惑をいかに断ち切るか。俊介がしなければならない第一は、たぶんこれだ。  今隼人にできるのは祈ることだけだ。  静かに息を整え、強く願う。 (いにしえの鳳凰よ、あなたのわかき眷属をその尊き翼にはぐくみ、お守りください) (あなたの選ばれし者の末裔《すえ》のため、我が身を顧みず働く忠義の者です) (どうかそのものの裡に潜みし闇と、迫り来る汚れの両方からお守りください)  聞き届けられなかったら、鳳凰の守護など存在していなかったのだ。もう信じられないし、祈ることもなくなる。  一縷の望みがあるとしたら、高遠遥の存在だ。  俊介が世話をした遥は、無事証立てを遂げ、隆人の凰となった。隼人が思っていたよりずっと隆人との仲はむつまじい。 (鳳凰が相愛であるのならば、俊介は守られる) (隆人様が俊介の帰還をお望みなのだ) (だから、俊介は帰ってくる)  俊明から俊介のことを託されて以来、ずっと見守ってきた隼人にとって最も厳しい試練の時の始まりだった。 ――試練 了―― 20040811

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