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Bitter 日常
更衣室に誰かが入ってきた。瞬間身がすくむ。郁広 が同性に緊張するのはどうしようもない。
背後で人が足を止める気配があった。
「おや……」
思わずもらしたふうの一言にかすかに嘲るような何かを感じる。
「お疲れ様です」
目を合わせずに頭を下げる。顔を見なくてもわかる。これは郷田だ。
「――お疲れ」
また奇妙な間があった。それから男は郁広のロッカーから二つほど間をあけた位置のロッカーを開けた。
こんなに近い位置だったとは知らなかった。いっそう緊張が強まる。早く着替えてこの場を離れたい。作業ズボンのベルトを外しかけたとき、視界に動くものがあった。あっと思う間に顎をつかまれて、郷田の方を向かされていた。とっさのことに体が動かない。
「女みてえなツラだと、肝っ玉まで女なみか」
突き刺すような視線が向けられていた。
「男同士で何をびくついてやがる。それともてめえにはサオもタマもねぇのか」
言葉と同時につかまれた。息が止まる。痛みに思わず目をつぶった。
「あるじゃねえかよ」
ささやきが熱く耳に吹き込まれる。寒気がする。
「そのツラでそんな表情 すんなよ……」
手が強弱をつけてもみこんでくる。歯を食いしばって、それに耐える。
「へぇ……」
郷田はおもしろがっている。
「ちっとも勃たねえなぁ」
ぎゅっと絞られて、目の前に火花が散った気がした。次の瞬間、苦痛から解放された。いつの間にかもたれかかっていたロッカーにそって、ずるずると床に座り込む。痛めつけられた股間がじんじんと痛んだ。
「てっきり男を知ってるのかもと思ったが、違ったらしいな」
嘲笑が頭の上から降ってくる。
「ガキがいるってぇ話だから童貞じゃねえんだよなぁ。その割には反応がウブすぎじゃねえのか、野郎に握られたにしたってな」
異様な感触にはっとして目を開けると郷田が自分の靴裏を郁広の股間に押し当てていた。踏みつけられるかもしれない恐怖に体がすくむ。
「そそるねぇ、その顔」
じわじわと靴が圧迫してくる。たった一言「やめろ」と言えばいいのに、その一言が出てこない。過去の恐怖が郁広のすべての自由を奪う。思い出してはいけない光景がまるで視界に差し込まれる紙芝居のようによぎる。
自分が悲鳴を上げようとしているのがわかった。現実と記憶の境が薄れている。
低い笑いとともに股間に加えられていた圧力が消えたのは何となくわかった。極度の緊張から解放されたせいか、頭がぼうっとしている。郷田が何か言っているようだが、よく聞こえない。
ロッカーを閉めるばたんという音にすくみ上がった。
「じゃあな」
郷田が去っていく。郁広を踏みつけた靴が遠ざかるのが見える。
更衣室のドアが閉まる音を聞いてから、やっと立ち上がることができた。しかし指先が震えて、うまく着替えられない。一つわかっていることは、おそらくこれから毎日のように郷田にいじめられるだろうということだ。
今までも郁広の側には必ず攻撃してくる男が寄ってきた。多くは他人を苛んで自分を強いと確認したがるようなタイプだ。そんなことをして何がおもしろいのかわからない。わからないということが既に郁広が虐げられる立場にあることの証明かもしれない。
ため息をついて苦しさを紛らわす。そうしなければいられない。遥の前でため息をつきたくなければ、家に帰る前にこの胸にたまった鬱屈を吐き出しておかなくてはならない。
(遥に心配はかけられない)
父親としてできが悪いことは承知している。できるだけ心配をかけないよう気を配ることはかかせない。遥はとても郁広を大切にしてくれる。郁広には過ぎた息子だ。その子の父としてきちんと生きたい。
だが理想と現実のギャップは大きい。
またこみ上げた苦しい思いを息とともに唇から吐き出しながら、郁広は更衣室を後にした。
――日常 了――
20050329
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