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(3)兄弟

 桑原(くわはら)光は階段教室のできるだけ前の空席を探した。 「光、こっち」  手を挙げた佐藤の隣の席に滑り込む。 「サンキュ」 「今日もギリギリだな。兄上の世話か?」 「夜眠れないからできるだけ長く寝かせてやりたいんだ」 「ニートだろ?」  光は美しい顔を歪めた。 「兄貴は病人だよ。もう一度診断書見せようか?」 「一度でたくさんだよ、光の君」  源氏物語になぞらえた呼び名に苦笑する。  紫之(しのゆき)(ひかる)の名は源氏物語好きな祖父につけられた。「一姫二太郎」を期待されて女名「紫乃」が用意されていたが、生まれたのは男子で紫之となった。どうしても第一子には作者名を入れたかったと祖父は語っていた。翌年、もう一人男子が生まれて今度は光になったのだ。  学食で佐藤がカレーライスをすくいながら言った。 「年子の弟が光ってのは兄上も辛いな」 「そうか? 俺は自分をいい弟だと思ってるぞ」  光は中華定食の炒飯を食べる。 「何でも比べられるでしょうが。身長、成績、学校での役職、運動神経、容姿。言いたかないが、お前ポイント高いもの。背高くて、顔立ち凜々しく整ってて、成績よくて、走れば速いし。難を言えば性格がちょっときついくらいか?」 「でも、うちの兄貴はかわいいぞ。それに両親は平等と言うより、兄貴に甘かった」 「そりゃ、兄上が努力しても限界があったからだろ。お前の限界よりもっと下に」  光はシュウマイを口に運ぶ。 「兄貴は間が悪いんだよ。中学の受験も風邪で駄目だったし、センターもインフルで追試験だった」  佐藤がうっと息を詰める。 「そりゃ引きこもりたくもなるわ。弟は有名中高一貫校を出て、いまや最高学府の学生さんじゃな」 「だから引きこもりじゃなくて、うつ病。ちゃんと診断ついてて、精神科に通ってて、薬も飲んでる。ただなあ――」  両親の事故死がなければ、きっと紫之はもっと回復していただろう。  葬式が終わった後、紫之は親孝行が何もできなかったと言って泣いて自分を責め、再び寝込んでしまった。食事もろくに取れずに痩せ、医者には入院を勧められた。  佐藤のカレー皿が空になった。 「確かにお前もがんばってるよ。親戚いないんだろ?」 「ああ、両親とも一人っ子で、祖父母はどちらも亡くなってる」  幸い、経済的な問題はなかった。おかげで学生とはいえ成人した光が紫之の面倒を見ることができている。くだらないコンパなどに出るより、兄と食事をともにする方が大事だと公言してはばからないから影でブラコン呼ばわりされているが、どうと言うこともない。 「最近はずっと切り絵に凝っててさ」 「切り絵?」 「SNSで見た作品に刺激されて、いろいろ切ってるよ」 「やりたいことができたならいいことじゃないか」 「ああ、俺もそう思ってる」  いつだったろう。ある日大学から帰って来たら、珍しく晴れやかな笑顔で出迎えてくれた。  光にスマートフォンを向け、黒い影絵のような少女の写真を見せてきた。 「何これ?」 「切り絵なんだって。このレースのところも全部線を切り出してあるんだって」 「まさかあ」  あまりに細かいウェディングヴェールの模様にそう言ったら、紫之が自分のことのように怒り出した。 「本当だよ。切っている途中経過だってアップされていたんだから」  そこから紫之は突然切り絵にのめり込みだしたのだ。通販で道具を買い、本を買って、切り絵を始めてしまった。  刃物を持たせるのは不安だったが、下手に逆らうよりやりたいことをさせた方がいいと、最終的に光は判断した。  時々のぞいて、本を見て他人のデザインを切っているなと思っていたら、突然ケルベロスの絵を描き、切り始めた。  岩の上で、三つの首がそれぞれの方向を向いて吠えている。やけにリアルだ。  光はそれを見て五歳の出来事を思い出し、体に震えが走った。  紫之と二人ドーベルマンに追いかけられたことがある。紫之もきっとあの出来事を忘れられないに違いない。  佐藤がトレイを持って立ち上がった。 「今日の復習、俺のところでやるか?」  光はにやりと笑う。 「図書館でいいんじゃないか?」  佐藤が口を尖らす。 「話ができないだろう?」 「わかった。行くよ」  光も立ち上がった。

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