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(8)キス

「ああ、しの――」  光に抱きしめられた。怒っているので逃げだそうとしたけれど、紫之の力では無理だった。 「そんなに積極的になっていたんだ。ごめん、謝るよ」 「これでもSNSで僕の切り絵を良いと言ってくれる人もいるんだ」 「知ってるよ。しのの切った天使はしののように優しい顔をしているし、ケルベロスはあの時の(ドーベルマン)みたいに大きくて怖い」  紫之は光の胸で泣きじゃくる。 「だって怖かったんだもん。本当に食べられるんじゃないかと思ったんだもん」 「そうだよね、俺が放しちゃったから、怖い目に遭ったよね。俺、あの時、転んだしのの上に犬が乗ったとき、ぞくぞくしたんだ。噛まれたしのが悲鳴上げたとき、ああ、しのが死んじゃうかもしれないって興奮したよ」  光の手が紫之の体をまさぐってくる。それはいつもの抱擁とは違って、紫之の肌をなめるような動きをする、背中を、脇腹を、尻を。  紫之の背筋に寒気が走った。全身が粟立つ。 「光っ?」  顔を上げた目の前に、ぎらぎらした光の目があり、唇が紫之のそれに重ねられた。  紫之は必死に首を振り、身をよじった。  光の腕から解き放たれた。 「何するんだよ、光っ」  光はうっすらと笑っていた。 「しのがあんまりかわいいから、つい」 「僕は男で、兄だぞ?」 「わかってるよ。ごめん、しの」 「紫乃は女の子が生まれた時用の名前だ。僕は女じゃない。変なことするならもう『しの』って言うな」 「かわいい愛称なのに」 「父さんも母さんも年子だから、名前で呼び合えって確かに言ってた。それなら僕は紫之だ!」  光が下を向いて頭を掻いた。 「わかった。さっき反対したのは悪かったよ。紫之は企画展に参加したいんだね」  急に物わかりからよくなった光に紫之は警戒せずにはいられない。顔を上げた光が微笑む。 「そんな顔しないで。俺だって紫之がうつを克服して、他の人とつきあえるようになった方が嬉しいんだから」  紫之は上目に光をにらむ。 「さっきのキスは、何?」 「親愛の情、ただのね。紫之はたったひとりの家族だから、俺にとっては特別だ。紫之は違うのか?」 「そ、そりゃ、光は大切な家族だよ」  口ごもりつつも肯定する。 「よかった。ごめんな、からかっただけなんだ。ごめん」  光が深く頭を下げた。  素直に謝られて、紫之にはそれ以上追求できなかった。  寝るまで光の態度にはもやもやした。眠れないのではと恐れたが、今夜も上限量まで飲んだ睡眠導入剤のおかげで紫之は眠りにつくことができた。  だから深夜に光が部屋に来たことも、紫之のスマートフォンを持っていき、また返しに来たのにも気がつかなかった。

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