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(5)不知ヶ淵
もう、消えるしかない――そう思った。
大奥様と良様に簡単な手紙をしたためると、懐中電灯を持ち外へ出た。
月が明るい夜だった。だが林の中へ入ってしまえば闇は姿を隠したい今の僕の味方だった。屋敷から十分に離れた小径で懐中電灯を点けた。
灯した明かりの中を虫が通って驚かされ、林の中では大きな木々の影が揺れて怖がりな僕を責め立てた。
それでも僕は行かなくてはいけない。
林の中から、わずかな水音が聞こえてきた。林を抜け出て、足元は砂と小石に変わっている。
月明かりの中に水面がきらめいて美しい。
不知ヶ淵 にやっとついた。
水際に進むと僕は明かりを消して、懐中電灯をおく。靴と靴下を脱いだ。
両手を合わせる。
(水神様、水を乱すことをお許しください)
爪先から水に入っていく。くるぶしまで、ふくらはぎまで、徐々に水は上がっていく。冷たく重くなる水の中を僕は進む。
耳に届くのは林の木々が風に揺れる音と僕のまわりの水音のみ。
体はすぐに芯から冷え始めた。
腰まで水が達すると、もう水底の土は軟らかくなってしまった。
胸まで水に浸かるともう足は底に届かない。体を水に浮かばせ、足で水を掻くしかなくなった。
(もうお任せしよう)
水に潜ろうとしたまさにその時、僕は信じられない声を聞いた。
「いてッ」
良様?
振り返ると岸に良様がおいでになった。着ているパジャマもお顔も泥だらけでいらした。
なぜ、ここにいらっしゃるのか。
一度だけ不知ヶ淵のことをお話ししたけれど、場所まではお話ししていない。
「良様っ、どうしてここへ」
「沈丁花の香りを追ってきた」
「そんな……」
涙がこみ上げてきた。
良様が顔をあちこちに向けて探してくださっている。
「秀、どこにいる? 水の中か? そうなのか?」
血を吐く思いで僕は告げた。
「このまま消えさせてくださいませ」
「嫌だ!」
きっぱりと否定された。
「知らぬこととは言え、実の弟と番ってしまったわたくしは、もう邪魔な存在です」
「僕には必要だ! 僕の番はお前しかいない!」
「その思いが、辛いのです。わたくしだけを思ってくださるのでは、人として赦されざる過ち」
嘘だ。僕はうれしいのだ。こうして僕だけを追ってきてくださったことが。
幸せなまま、もう他の誰かに触れられることなく、この世から消えてしまいたい。
良様が絶叫された。
「目が見えないから僕を捨てるのか? お前の匂いしかわからないのに!」
心臓が止まった気がした。
「沈丁花の花の香りしかわからないのに!」
涙が――涙が声を濁らせる。
「ち、違います。わたくしも、わたくしも……」
「戻ってこい!」
それは命令だった。命令には従うのが僕の役目だ。
岸に戻らなくては。
焦って水を掻いても掻いても、岸は遠いままだった。
ああ、水神様。
「戻れません! 水が、水が――」
バシャバシャとあがいても水を飲むばかりで、かえって奥へ引き込まれていく気がした。
やはりここに入ったら、もう戻れないのだ。
ごめんなさい、良様。秀は初めて命令に背きます。
お慕い申しておりました。
それが最後の記憶だった。
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