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「遥、海に行こうか」  懐かしい父の声がする。 (ああ、これは夢だ)  寂しさよりも懐かしさが先にたった。  上がりかまちに腰をかけている遥に父が靴を履かせてくれた。 「さ、行こう」  遥は小さい手で父の指を握り、父の指が遥の手に柔らかく温かく触れた。  父はとても優しい人だった。それに対して母は幼い遥にもきつく当たった。父に対してもよく腹を立てていた。  どうして母はよく怒鳴り、遥や父に怒るのか?  不思議だった。  ある日、夜中に母の声で目を覚ました。 「どうしてたたないのよっ、あたしに魅力がないというの!」  それから母の泣き声がして遥はびっくりした。父が一生懸命詫びている。  母も泣くのだ。おこってばかりではないと知った。  遥は母に対して少し優しい気持ちになった。  次の日、仕事帰りの母の肩を叩こうと背後に回った。 「母さん、肩を――」  体が飛ばされた。耳が、頬がじんじんし始め、遅れて痛みがやってきた。何が起きたのかわからずにただ痛くて声を上げて泣く。 「淑子! 遥に手を上げないでくれ!」  父に抱き込まれる。父の肩越しに見えた母は、怒りに歪めた顔を背けると遥に何も言ってくれずに外へ行ってしまった。いつもは呼び止めていた父がなぜか母に声をかけない。  その夜から母が帰ってこなくなった。 「母さんは?」  遠慮がちに父に尋ねると父は困ったような顔をした。訊いてはいけなかったのかなと遥は思う。  その週の終わりには姿を見せないままの母の荷物が運び出された。父は黙ってそれを見つめている。 「いいの?」  遥の問いに父が振り返った。 「いいんだよ。これでいいんだ」  唇をほころばせた父の目が微かに光っている気がした。 「遥、海に行こうか」  車が去ると父が優しく誘ってくれた。遥は自分で靴を履き父の手を握って、一緒に海に行った。  午後の日射しに照らされた波はきらきらと輝き、まぶしかった。  遥の前に父がしゃがんだ。わずかに微笑む父は優しい目をしていた。 「これからは父さんと二人だ。父さん、頑張るからな」  ああそうか、と遥は思う。今日からは父と二人でいられる。 「俺もがんばるよ」  遥がそう返すと、父がふふっと笑った。 「ありがとう、遥」  潮風に髪が乱される。笑いながらお互いの髪を指で梳いた。  目が覚めた。  涙がこぼれていた。父の夢を見るといつもこうだ。  遥は涙を拭う。  とにかく優しく、女性のように美しい顔立ちをしていた。そのせいで父がどんな目に遭っていたかは、あの頃の遥は知らない。ただ、怖い母がいなくなったのを密かに喜んでいた。  父が体を壊したのは遥が中学ぐらいのことだと思う。胃に手を当てては、胃薬を毎日のように飲むようになった。 「医者に行った方がいいよ」  遥がそういうと父は決まって「大丈夫」と微笑んだ。 「今度の仕事は続いているから、病院なんか行っている暇ないよ」  父が職場で倒れて救急車で運ばれたのは遥が高三の時だ。胃がんのステージⅣだった。  心配しつつも、心のどこかで大丈夫だと思っていた。何の根拠もない「大丈夫」だった。父はストレスを抱え込みすぎたのだと遥は今思う。  職場で悪辣ないじめに遭っては職を転々とせざるを得なかった父。しかしその苦しみを家でこぼしたことはなかった、ただ一度、遥の声さえ届かなくなった夜を除いては。  そんな父に遥は自分を重ねる。    父さんのように強く生きる。絶対に弱音は吐かない。思い通りにさせない。  セックスを強いるあの男を許さない。  父さんの遺言を破らせたあいつを。  遥は父の思い出とともに、屈辱の三年前の出来事を思い出していた。

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