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その日、父のようすはおかしかった。
ぼんやりしていて、夕食の片づけの時に皿を落として割り、更にその破片で指を切った。
もともときびきびしているとは言いがたい父なので、遥はいつもの調子で流しの前から父を追い出した。
「後は俺がやるからさ、父さんは横になった方がいいよ。何だか顔色も悪いし。それとも先にお風呂入る? 体温めたら――」
具合よくなるかもと言おうとして、父の異変に気がついた。
父は端から見てもはっきりわかるほど震えていた。
遥は水を止めた。
「父さん、どうしたの?」
「何でもない」
何でもないはずがない。父は自分の体を指の関節が真っ白になるほどきつく抱きしめているのだ。
「父さん」
「何でもないったら!」
伸ばした手を思い切りはじかれて、転びそうになった。慌てた遥がつかんだのは父の着ていたセーターとその下のTシャツだった。それを遥は思いきり引っぱってしまった。肩が見えるほど。
そこに異様なものを見た。
白くやせた父の肩にくっきりと残る赤い輪。点線のような一センチほどの線の繰り返し。
父が慌てて肩を隠した。その顔は蒼白だった。
あれは、歯形だった。
今日、父は誰かに暴行された。そして、まるで烙印のように肩に噛み跡を残された。
ずっとようすが変だった。
絶対何か起きる。
深夜、遥は気配に目を覚ました。
父が玄関の方へ出ていく。
靴を履き、ドアを開ける。
遥は慌ててパジャマの上にセーターやブルゾンを着込み、ズボンを履き替えて、父を追った。
父の足取りはゆっくりだったので、すぐに追いついた。
「父さん?」
おそるおそる声をかけても、返事がない。うつろな表情のまま歩いている。
父が行こうとしている場所は想像がついた。
風が吹き抜けるたび、松がざわざわと枝を震わせる。
深夜の道は小学生の遥には恐ろしい場所だった。
父が側にいるから歩いていられる。ようすのおかしい父のためだから歩ける。
やがてその道は防潮堤に沿った道に突き当たる。
父は道を渡り、防潮堤に近い側を歩いた。
波の音がする。
遥の心が震える。
(まさか)
そう思いながらも、完全には否定できない。ただ、父の後をついて行く。
階段が現れると、父は防潮堤を上り始めた。
遥の心臓は鼓動が早まる。
(もしかしたら)
怯える気持ちが強くなる。
一番上までのぼると、今度は浜側へ降り始めた。
遥は降りることをためらった。
暗い海は、遥の知る海ではなかった。
友達と教室で聞かせあう怪談の舞台だ。
しかし、遥がそうしている間にも、父は防潮堤を降りきってしまった。
「待って」
ひとり取り残されることが怖くて、遥は慌てて降りた。
「置いてかないで」
父は一度も遥を振り返らない。遥の声が聞こえていない気がする。
父は真っ直ぐ波打ち際へ歩いていく。まったくためらいは見られない。道を歩いていたときと同じように海へ近づいていく。
「父さん? 父さん!」
もう、足が波に洗われる場所まで行ってしまった。
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