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遥は父に駆け寄った。
「父さん、しっかりして」
遥は父の腕にすがりつく。
「もう、ゆるして」
父のつぶやきに、遥は父の顔を見上げた。
父は相変わらずうつろな表情だった。その頬には涙が流れていた。
胸が痛んだ。
それでも、父の手は放せなかった。ここで放したら、遥はひとりにされてしまう。
「やめて、行かないで、お願いだから。お願いだから、父さん」
膝までの海水の中で、遥は父の体に抱きついた。
「行かないで、俺をひとりにしないで、お願いだから、置いていかないでっ」
その時寄せてきた高い波に遥たちはよろけた。その波が退いてきたとき、遥は父の体から手が離れた。
(流される)
「遥っ」
父の声がしたときには、遥は転んでいた。転んだまま、波に引きずられる。顔が水面に上げられない。
必死にもがいたが、掴まるもののない水の中ではどうにもならなかった。
その時、ふっと思った。
置いて行かれたくなければ、一緒に行けばいいんだ。
急に気持ちが楽になった。
このまま流されてしまえば、もう父さんが苦しむ姿を見なくていい。
その瞬間、信じられない強い力で、遥は腕をつかまれた。
痛さに悲鳴を上げそうになる。そのせいで、海水を飲んでしまった。
力に無理矢理海面に引っ張り上げられる。そしてそのまま引きずられた。いつの間にか浅瀬に引き戻されていた。
遥は浜に座り込んだ。ひどくむせて、水を吐いた。
その遥を父がきつく抱きしめている。大声で泣いている。
「ごめん、ごめん。遥、ごめんなさい……」
(父さんは、変だ)
苦しさに喘ぎながら、遥はそう思った。
(父さんが死にたがったから、俺も一緒に死のうと思ったのに)
(自分は死んでもよくて、俺は死んじゃいけないなんて勝手だよ)
その一方でほっとしていた。
父は、遥を選んでくれた。自分勝手な死より、遥と生きることを選んでくれた。
遥は父の胸に抱かれて、ほんの少し泣いた。
寒さに震えながら、家に戻った。
まだ残してあった風呂の湯を沸かす。
濡れたものを脱いだ。
遥は裸になった父を見て、息を呑んだ。
父の体は傷だらけだった。
そこら中にあざがあり、両手首にはぐるりと赤く擦れたような痕があった。
遥の視線に父は顔を背けた。
遥は歯を食いしばってから、表情を作った。にっこりと笑いかけて、父に言う。
「タオルと着替え出しとくから、父さんは先に入って」
喉が痛いし、声もかすれている。それでもふだんどおり振る舞おうとした。
「遥……」
父の泣きそうな声を聞くと、心が震えてしまう。
「早く、早く入れったら」
父に背を向けて着替えを取りに行く。
風呂場から水音がした。
あの晩以来、遥は海が怖くなった。
そして父も自分のしたことが恐ろしかったのか、それとも当時の職場に耐えられなくなっていたのか、仕事を辞め、海の側から引っ越したのだ。
なぜ父があんな目に遭わされなければいけないのか、当時遥にはまったくわからなかった。今もはっきりわかるわけではない。
父は非常に大人しく、争いごとを嫌い、控え目な性格だ。本来なら人から反感を買うようなタイプではない。
ただ、その容姿だけがふつうではない。なまじの美人では太刀打ちできないであろう愁いを帯びた女顔なのだ。
そのアンバランスさがある種のタイプの嗜虐心をそそるのかもしれない。
加賀谷が指摘したとおり、父は何度も暴行を受けている。
初めは単純ないじめや暴力が、やがて性的なものに変わってしまう。
女しか抱いたことがない男でも、アナルセックスの経験があれば父を犯せたのだ。
両親の離婚も結局はそういうことの積み重ねが原因だった。
一度付けられた烙印は消せないのだろうか?
父を見ながら遥はそう思った。
そう思った遥自身が、その烙印を押されてしまった。
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