42 / 66
(42)
腹をくくったことで、遥は多少精神的に落ち着いた。
すべてのキーは加賀谷が握っている。
他のことはともかく、父の遺骨の件は加賀谷からしか聞き出せないだろう。ならば加賀谷と敵対するのは得策ではない。
懐に入ってしまうしかない――
それが遥の出した答えだった。
遥に対して複数の攻撃者がいるのならば、少なくともその攻撃者からは庇護しようとしている加賀谷のところにとどまるしかない。
不本意だが、それが現実的な選択だった。
あの日曜日の拉致からの正確な期間はもうわからない。
その間に加賀谷のやり方や加賀谷自身に慣らされたからだとはどうしても認めたくない遥がいた。自ら選択したのだと思うことが遥には必要だった。
毎晩、遥は加賀谷とセックスした。加賀谷は企業トップにしては信じられないほど早く訪れ、そのまま遥を寝室に連れ込む。そして遥が音を上げるほどの長い時間がセックスのためだけに費やされた。
御披露目の前日は土曜だった。
加賀谷は朝早くに出勤し、昼頃戻ってきた。その時にはひとりの男を伴っていた。
男は美容師だった。
寝室のクローゼットの扉に新しくはめられた割れない鏡の前に椅子が置かれ、遥は濡れた髪でそこに座らされていた。
その美容師――加賀谷克己も「一族」の者だった。
「どのようにいたしましょうか」
克己は加賀谷にそう訊ねた。
「女らしく見えるようにしてくれ」
遥は思いきり顔をしかめ、鏡の中の加賀谷をにらむ。加賀谷はその遥の視線を受けとめながら、平然と続ける。
「この跳ねっ返りが少しは大人しそうに、上品そうに見えるように」
「悪かったな、下品で」
「黙れ」
短く命じる加賀谷の目に、遥は唇を噛んだ。これ以上よけいなことは言わない方が身のためだ。
「このきれいな顔に似合うようにしてもらいたい。性格に合わせるのではなくな」
「承知いたしました」
ずっと放置されてうっとうしかった髪にはさみが入れられていく。
ベッドに腰をかけている加賀谷が克己に話しかけた。
「お前の家はそいつに反対しているだろう?」
「はい」
遥の髪を切る手は規則正しく動いている。
「なぜ私の申し出を受けた?」
「隆人様のお望みでしたら、喜んでお受けいたします。それに」
はさみが止まり、くしで髪を取り分ける。
「家とわたくしの意見が必ずしも一致するとは限りません」
またはさみが動き始める。
「刺客として来たのではないのか」
「綾には、好きな男がおります」
ほうと加賀谷が言った。
「妹思いなのだな」
「本人が望まぬ相手に添わせたがる親は親とは申せません」
遥は唇を噛みしめていた。
一度としてこうなることを遥は望んでいなかった。体に特殊な刺青を施され、男と毎晩のようにセックスすることなど考えたこともなかった。
だが、それは遥の身に降りかかり、遥自身の力では自分の体を守り通せなかった。
無論、誰も遥を守ってはくれなかった。
父が生きていれば、必死に守ってくれただろう。
今の遥を父は喜んではくれないはずだ。
止むに止まれずとはいえ、自ら加害者たる加賀谷とセックスすることを選択した遥を。
加賀谷が皮肉っぽく笑った。
「やはり刺客だったな」
手を止めて克己が首を振る。
「決してそのような意図はございません」
「だが、お前の望むとおりの顔をしているぞ、そいつは」
克己の視線を鏡越しに感じる。
遥は顔を背けた。
克己が遥の前に膝をつき、頭を下げる。
「申しわけございません。悲しませる意図などございませんでした。どうかお許しください」
遥はこみ上げそうになる涙を必死でこらえる。
鏡の中で加賀谷が脚を組み直した。
「さっさと済ませろ。これ以上そいつを動揺させられてはかなわない」
「かしこまりました」
克己が立ちあがり、再びはさみの音が始まる。
「お前にその腕がなかったら、ここで叩き殺してやるところだ」
「恐れ入ります」
加賀谷に何を言われても、克己はさらりとかわしていく。
加賀谷はもう何も言わない。無論、遥の髪を切る克己もその側で警戒している桜木も無言だ。
ただ遥だけが喘ぐような息をしながら焦っていた。決めたはずの心を乱された。心という池をいたずらにかき回されて、そこにたまった澱が舞い上がったのだ。心が揺れてしまっている。その揺れを抑えようと必死になっていた。
冷静に戻れたのは克己がドライヤーの準備に離れた時だった。大きく呼吸し、感情を落ち着かせた。
その後ブローブラシとドライヤーで丁寧に髪を整えられた。
切った髪が遥に着かないように気を配っているのだろう。克己の手が遥を覆っていたケープを丁寧にはずした。
「終わりました」
遥は言われてやっと鏡を向いた。
(本当に女みたいだ)
大きいとは言えない色白の顔をやわらかなカーブを描いた髪が包み込んでいる。大きな目と長いまつげも小さめの鼻も、花びらのようと言われた唇も、自分で言うのは変だが可愛らしい。可愛らしさを髪が強調している。
確かにこの美容師は腕がいいのだろう。
いつの間にか加賀谷が側に立っていた。
鏡に映る加賀谷を見上げる。
加賀谷が遥の前に手を差し出した。
意味がわからずしばらくその手を見つめてから、やっと理解した。
遥は自分の手を加賀谷の手に重ねる。
手に促されて立ちあがった時、遥は加賀谷の顔が近づいてくるのを知った。
反応する間もなく唇が触れあう。更に加賀谷の求めに応じ、遥は唇を開く。
感じやすいところをくすぐるように舌先になでられて、遥の体は震えた。
力が抜けそうになる体をしっかりと抱きしめられる。
見られているのはわかっていた。それでも、加賀谷の与えるものが遥をとらえて放さない。
口づけの後、遥は引き寄せられた加賀谷の胸の中で乱れた息を吐いた。
加賀谷が口を開いた。その声は触れあう胸からも響いてくる。
「お前達がどう思っていようと、私はこれを選んだ。加賀谷隆人がそう決めたのだ。邪魔はさせない」
克己が黙って頭を下げるのが視界の隅に入った。
ともだちにシェアしよう!