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案に相違して、いつまで待っても寝室のドアはノックされなかった。
普段ならうっとうしいと思うのに、来ないとなるとかえって落ち着かない。
遥はこぼした涙の跡をぬぐうと、ベッドを降りた。
遥が寝室を出て、桜木達の部屋に近づいているのに、いっこうに動きがない。
変だ
まさか二人とも眠っているなんてことは、ないよな
開け放しのドアから、玄関ホールへ光が伸びている。かしゃかしゃという音が聞こえているから、眠ってはいないようだ。
遥はそっと中をのぞいた。
「遥様」
パソコンに向かっていた桜木がすぐに気がついた。湊はいない。
いつもの穏やかな笑みが浮かんでいる。
「どうなさいました? 眠れないのですか?」
「寝たよ。目が覚めただけ」
立ちあがって近づいて来た桜木が、遥の顔をしげしげと見た。
「泣かれましたか?」
遥ははっとして顔を背ける。
「顔を洗った方がよろしいですよ、気持ちが切り替わりますから。その間に私はお茶をご用意しておきます」
促されながら肩越しに部屋の中を見た。
それから桜木を見上げる。
「モニターがついてない」
「そのことは後でお話ししましょう。顔を洗ってらしてください」
そう言われて、洗面所へ行った。
洗面台の鏡に映る遥の顔は、お世辞にも美しくなかった。目は赤く、まぶたは少し腫れているし、鼻も赤い。
(かっこわる……)
念入りに顔を洗い、タオルで拭いた。
ダイニングに行くと、桜木が急須から茶碗に緑茶を注いでいるところだった。
遥は出入り口近くの椅子に適当に座る。その時見上げた壁の時計は午前一時半だった。
桜木が苦笑した。
「上座に座ってくださらなくてはいけません」
「いいじゃないか。好きなところで」
桜木がため息をついた。
遥は自分の前の席を指さした。
「前に座れよ。話ができないだろう?」
あきらめのため息だろう。桜木がまた深く息を吐いた。
桜木の差し出してくれた茶碗を遥は両手に包む。
しみじみと桜木が言った。
「ずっと変わられないのですね、遥様は」
「変わったよ」
「いえ。変わられません。決して私を俊介とはお呼びにならない」
「湊は呼んでる」
「それは湊が同い年だからでございましょう? 遠慮なさらずに呼んでいただきたいのですが……」
「遠慮しているわけじゃない。呼びたくなったら呼ぶ。自分のしたくないことはしたくない。無理をするとぼろが出るから」
「それはそうかもしれませんが……」
遥は茶碗をテーブルに置いた。
「今夜はどうして見張ってないんだよ」
桜木が遥を見てから、視線を落とした。
「隆人様からのご命によりまして、今夜は控えさせていただいております」
遥は視線を桜木以外の場所に移す。
「俺が突然暴れ出すかもしれないのにか?」
「今夜は決して遥様の邪魔をすることのないようにと、命じられております」
遥は意地悪く訊く。
「俺が目の前で自殺しようとしてもか」
桜木の視線を感じた。思わずそちらを見てしまう。
「はい。その通りでございます」
桜木が静かに肯定した。
遥は歯を食いしばった。
「この期に及んで、わたくしも言い訳はいたしません。私は自分の信じることを実行してきたのみ。ですが、泣くほどお嫌なことをこれ以上遥様に求めるのも、やはり何か違うような気がいたします」
「だから、勝手にしろと、そう言うわけか」
「いえ、決してそのような投げやりな気持ちで申し上げたわけではございません」
遥は髪をかき上げた。それから頬杖をついて、視線を横に逃がした。
「泣いたのはそのせいじゃない。昔母親に捨てられた時の夢を見たからだ」
桜木は何も言わない。
遥は自嘲する。
「あの人は、俺の父親の妻でいたことを忘れたいから、父親似の俺もいらないと言った。自分で生んだくせに、いらないんだってさ。両親が離婚した後、一回だけ電話したことがある。もうかけないでと言われた。誰がかけるかテメェなんかにと思った。とどめは父さんが亡くなったことを封書で知らせた時だ。あの人は俺の送った封筒に受け取り拒否と書いて送り返してきやがった。赤い字ででかでかと」
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