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 涙がこぼれる。 「何であんな女の子どもに生まれたんだろう、俺。きっと俺が死んだと誰かが知らせても、そんなこと聞きたくなかったって言うんだろうな」  両手で顔を覆う。 「俺にとっての家族は、本当に父さんしかいなかったんだ。いっぱい辛い目にあっても、俺の前では微笑ってくれた。俺を残して自殺しようとしたことをいつも後悔していた。俺がいなければ、あの時死ぬことだってできたんだ。何度もひどい辱めを受けなくたってよかった。病気であんなに苦しみながら死ぬこともなかった」 「でも、お父様は遥様を大切になさっていたでしょう?」  遥は顔を覆う手をはずした。 「ああ、そうさ。だから父さんが死ぬ前に望んだように、背中にこんなもののない体のままでいたかった。俺がそう望むことは間違っているか?」  桜木が首を横に振った。 「いいえ」 「結局俺は自分の体を守れなかった。得体の知れない傷を付けられて、加賀谷隆人という男のセックスの相手にされて。そんなこと父さんが喜ぶと思うか? ええ?」  桜木が苦しげに顔をしかめた。 「だから俺は俺をこんな目に遭わせた加賀谷隆人という男を憎み続けなければいけないんだ。絶対に許してはいけないんだ。もう俺にはそうすることしかできないんだから。俺に父さんの言いつけを破らせたあの男を認めてはいけないんだ」  遥はきつく歯を食いしばった。それから言葉を吐き出す。 「なのに、なぜ昨日になって、自分の事情を説明するんだ。わけのわからないままにしておかないんだ。事情を説明されたら、俺はあいつの立場を理解しなくちゃいけなくなる。そんなの卑怯だ。なぜ憎んだままにさせておいてくれない? 俺はあいつにも子どもがいて、その子どもを守るために俺を使おうとしていることなんか知りたくなかった。知らない方がずっと――」  遥は喘ぎ、それからふうっと息を吐いた。  いや、そうではないのだ。  何を今更と苦笑が浮かぶ。  遥は立ちあがった。 「ごちそうさま」 「遥様」 「寝る」  ダイニングを出ようとした時、桜木が言った。 「申しわけございません」 「あんたが謝る理由はない」 「わたくしが、遥様を見いだしました」  その言葉に遥は振り返った。  桜木が土下座していた。 「彫り師の気に入るようにできるだけ肌のきれいな者を探せと命ぜられて、わたくしどもはあちこちに参りました。それこそ全国のあちこちに。あの銭湯で最初に遥様を見つけたのはご存じの通りわたくしです。すぐに彫り師に連絡しました。翌々日訪れた彫り師が遥様を気に入ったのです。ですから、わたくしが遥様を見いださなければ、このような辛い思いをなさらなかったのです。申しわけございません」  遥は床に額をすりつける桜木を見つめた。  口を開いた。低い声しか出てこなかった。 「そうやって、加賀谷隆人を庇うんだな」 「これが事実です」 「黙れ」  遥は桜木を見据えた。 「きっかけはどうであれ、俺を犯したのはあの男だ。それも事実だ」 (俺を変えたのもあの男だ)  遥は身を翻して寝室へ戻った。  閉めようとしたドアを、手に押しとどめられた。  無理矢理に開かれたドアから、桜木が中へ入ってきた。桜木の背後でドアが静かに閉ざされた。  遥は後ずさる。  しかし、桜木はドアの前に苦しげな表情で立っているだけで、ベッドの方へは近づいてこなかった。  意を決したようにその場に両手両膝をつくと、再び遥に対して頭を下げた。 「何を申し上げても、遥様のお心を乱すだけだというのはわかっております。被害を受けた形の遥様にとって、加害者たる私や隆人様の言葉は自己弁護に過ぎないということも。赦しは請いません。お赦しいただけるはずがございませんので。恥知らずは承知しております。ですが、どうか隆人様の凰となってください。お願いです。そのために死ねとおっしゃるのなら、喜んでこの命を差し上げます。どうか――」  遥は笑った。 「湊が言っていたな、お前はあいつのためなら命をも投げ出すと」  桜木は動かない。 「卑怯だ!」  遥は悲鳴のように叫んだ。 「どうしてそうやって俺を追いつめるんだ。そうやって、俺の自由を奪う。何一つ俺に決めさせない。選べと言いながら、選択肢はいつも一つだ。もうやめてくれ。俺の体が必要なら、俺の精神を完全に破壊してくれ。何も考えなくてすむように。そうしたらもう迷わないから。俺に選ばせろなんて言わないから」  ベッドに伏して、拳を叩きつけながら遥は泣き叫んだ。 「いやだ。絶対にいやだ。俺は何もしない。何もできない」 「落ち着いてください」  すぐ側で湊の声がした。 「兄が無礼なことを申しました。申しわけございません。どうか気を落ち着けてください」  静かな声に、遥はベッドを殴りつけるのをやめた。ただ顔をベッドにうずめる。 「出ていってくれ。頼むからひとりにして」 「かしこまりました」  人の気配が離れていく。そして、ドアが閉まる。  精神的に遥はずたずただった。  広いベッドではなく、またラグの上に横になる。手足を縮めて自分の体を抱く。  大声を出したせいで喉が痛い。喉を手で押さえる。  ため息をこぼしてしまう。  強烈な自己嫌悪に襲われている。 (今更何を言っているんだ、俺は)  庇ってくれた父を亡くしたのは、二十一の時だ。その時点で遥は成人していた。二十四の今、大切に庇われて育っている加賀谷の小学生の息子にある種の妬みを感じるのはどういうことだ。  遥は自嘲の笑みを浮かべた。 (俺は変だ) (歯車がずれている気がする) (真実は、いったいどこにあるんだろう)  精神の疲れからか、眠りは唐突に訪れた。  こんなところで寝てしまったら、叱られる。  ぼんやりとそう思った。叱ってくれるのが誰なのかは、よくわからなかった。

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