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風邪
俊介が世話係に復帰して三ヵ月ほど経った頃、遥は風邪をひいた。
食欲がなくて咳が出るなと思っていたら38.7度の熱が出ていた。直ちに亮太郎が呼ばれて診察を受け、その結果「いわゆる風邪」と診断されたのである。
今はベッドに横になり、世話係たちに昼夜にわたってすべての面倒を見てもらっている。
立つと頭がくらくらするのでトイレに行くのも付き添いが必要だったし、食事も吹き冷ました粥を匙で口に運んでもらった。水分は抱きかかえられてストローで飲んだし、汗をかけば濡れたパジャマを脱がされ体を拭かれて、乾いたものを着せつけられた。
すべて遥はされるがままである。
なまじ体が丈夫で風邪をひくことなどほとんどなかったため、今回のことは精神的にもダメージが大きかった。逆に言えば一人暮らしでないということがこれほど心強いとは思わなかった。
昨夜は熱でほとんど寝られなかったが、今夜はとろとろと眠気が波のように寄せてきている。ベッドの横には昼間は出かけていた俊介がいて、タオルを水で冷やしては額に乗せてくれている。
気持ちいいな
遥は水底にゆっくりとに沈むように眠りに入った。
意識が浮上したのは、微かな囁きが耳に届いたからだった。
始めは何を言っているのか聴き取れなかったが、チューニングを合わせるように耳を澄ませる。
「――ほんとうに申し訳なく思っております」
それは俊介だった。
遥が眠っていると思っているのだろう。言葉は続いた。
「わたくしにとって隆人様は絶対の御主 、ご命令は従うものと物心ついたときにはもう身についておりました。たとえそれが世間で言われる人倫に悖 ることだとしても、隆人様が下されたのならお望みを叶えるのが当たり前。
これが隆人様の配下として生まれた者であれば義務でございます。いえ、存在を許される理由ですらあるのでございます。
ましてわたくしは桜木家の当主。鳳様の懐刀としてすべてを、身も心もすべて御捧げすることが生きる道でございます」
俊介の声のトーンが落ちた。
「ですから、遥様を見出し、捕 まえ、更に追って、ここに監禁させていただくことは、わたくしには自然なことでございました。隆人様のお声しか私の耳には届かなかったのでございますから」
ため息が聞こえた。
「遥様のお気持ちを、ぼんやりと想像させていただいたことはございました。が、そのお苦しみをわたくしは何もわかってはいなかった。
隆人様の御為 であれば人を断つことも厭わぬのが桜木家の当主。隆人様が鳳凰様の守護を受けられるのであれば、他のことは二の次にしておりました」
俊介の口調が変わった。
「愚かな。何と愚かなわたくしであったことか」
絞り出すようなつぶやきは更に小さくなった。
「どれほど恐ろしかったか、どれほど屈辱だったか、どれほど怒りに震えたか――そんなことにも思いが至らずに……わたくしは……わたくしに与えられた任務の完遂しか考え得ず……」
過去を思い出し遥は胃を捕まれたような気がする。そう、苦しかった。憎かった。隆人も俊介のことも赦せないと思っていた、あの時は。
「隆人様の御為に遥様をお迎えすることは譲れないことではございました。けれどもっと遥様のお気持ちを思いやっていたわって差し上げることはできたはずでございます。
何と無礼な態度であったことか。卑しい振る舞いであったことか。
もっとわたくしに他人に寄り添う気持ちがあったのならば、もっと遥様のお心に安らぐよう気を配ることもできたはずな――」
「お前はよくやってくれているよ」
目を開けた遥は俊介の自虐に苦笑して声を掛けると、俊介が跳ね起きるように顔を上げた。
「起きていらしたのですかっ?」
「まあね」
薄暗い室内ではあるが俊介の顔に朱がはかれるのが見える気がした。それだけで何だか得をした気がする。
「う、うるさくして申し訳ございませんでした」
額のタオルを取って洗面器の水で絞り直す俊介は明らかにうろたえていた。証拠にタオルを乗せる手が俊介らしくもなく震えている。
遥は微笑んだ。
「俺が隆人を認めてもいいと思ったのは、お前のせいもあるんだぜ」
俊介が迷子の小犬のように、頼りなく眉を寄せている。遥は布団の下から手を出すと、俊介の頭に乗せた。
「お前、本当に犬みたいだな。隆人の忠犬。そこまで他人に尽くされる加賀谷隆人ってのが心底悪人だとは思えなくなっちまったんだから、お前の責任は重い」
「はい」
俊介が遥の手をそっと取って布団の下へ戻した。
遥はふと思いつきを口にした。
「なあ俊介」
「はい」
「お前に子どもが生まれたら、俺に抱っこさせてくれよ」
俊介が息をのんだのがわかった。
遥は視線を天井に向ける。
「自分の子どもってのはもう俺には望めないだろう?
で、世話係で一番年長なのはお前だ。いつ結婚してもおかしくない。そうしたら子どもも生まれるだろう。
なんせお前は桜木の当主なんだから、子どもに跡を継がせなきゃいけないはずだ。
するんだろう、結婚――」
しゃべりすぎたのか激しい咳がこぼれた。横向きになってこらえると、俊介の手が背をさすってくれる。
「そうしたらさ、抱っこしてみたいんだ、お前の子ども――」
また咳き込む。
「少し水を飲みましょう、遥様」
ペットボトルに差したストローを口元にあてがわれ、遥は大人しく水を飲む。その後は落ちた濡れタオルを俊介が絞り直して仰向けになった遥の額に乗せてくれた。
「洗面器の水を換えて参りますね」
俊介が出ていった。
その俊介が戻ってくる前に遥は眠りに落ちた。
次に目が覚めたとき、眠る前にせがんだ答えを俊介からもらうことは忘れてしまっていた。
――風邪 了――
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