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第5夜 第33話

「ああ、大丈夫だけど。どうした?」  胸が、ざわざわする。  でも――松原、だから、大丈夫。  でも――松原は、松原といま一緒にいるのは、って考えたらどんどん身体が冷えていくのを感じた。 「え? ん……気づかなかったな。車の中かな」  イヤな予感が増してく。  なにが、車の中? 「そうだね、途中で落ちたのかも」  なにが、落ちた?  ――忘れ物?  誰の。  って……そんなもん。 「ああ。うん。――ああ、実優?」  優斗さんが俺から退けて、ベッドの端に腰掛ける。 「いや、俺も気づかなかったからな。――ん、見てみるよ。でもいまは……ああ、そう?」  笑えるくらいあっという間に、全部、萎える。  ざわつく頭ん中で思い出したのは、佐伯さん。  俺に必死にアドバイスしてくれた佐伯さんを思い出して。 『ごめん』  って、謝った。  俺は――たぶん、言えない。  たぶん、わかってやれない。  佐伯さんみたいに前向けそうにない、まだガキだから。  俺はそっと手を、伸ばした。 「優斗さん」  小声で呼びかけると優斗さんは「ちょっと待って」とスマホに向かって言って、俺を見た。 「どうかした?」 「あのさ、俺、用事あったの思い出した」 「……は?」 「ごめんね、優斗さん。だから今日はもう帰るね」  愛想笑い浮かべて、軽く言って、立ち上がる。  驚いた様子の優斗さんが、なにか言いかけたけど、 「あとでまた連絡するね」  って、部屋を出た。  わかってやりたい、とは思ってる。  でも、今日はなんかもう、いい。  せっかく今日はいい天気だったから、うざったいことは考えたくない。  うざったい自分なんか吐き気がする。  玄関向かって靴履いて、鍵開けて、ドアを――。 「捺くん!」  開けようとしたら腕を掴まれた。  振り向いたら難しい顔をした優斗さんが俺を見つめてる。  スマホは……持ってない。 「なに、用事って?」 「……ん? ダチと遊ぶ約束してたの忘れてた。さっきほら駅で優斗さんとばったり会ってびっくりして嬉しかったから忘れてたみたい」  きっと完璧な演技、だよな?  笑って、言えばいい。 「……本当に?」  だけど優斗さんはなぜかしつこい。 「ほんとーだって。どうしたの、優斗さん」  変だよ、って笑って。  だけど優斗さんは眉間にしわをよせて俺を見てる。 「……でも」 「あとで連絡するし! ね?」 「……捺くん」  だけど俺の腕は掴まれたまま。  ……なんで離してくれねーんだろ。  早く、帰りたい。  つーかどっか行きたい。  ぱーっと騒いで、そんで頭空っぽにしたら、また優斗さんと会うし。  ただ、それだけだし。 「あのね、捺くん」  優斗さんが迷うように視線を揺らした。  なんかそれが、いやな感じに思えた。 「……もしかして、捺くんさ……」  優斗さんの口が、なにか言いたげに動いて。  その唇の動きに――。 「違ったらごめん。……もしかして、実優のこと気にしてる?」 「――……は?」  なんで。  って、言った声が、笑って言ったはずだけど冷たく響いた気がした。 「意味、わかんないけど」  優斗さんの手が力なく俺から離れていく。  その視線がまた揺れて、だけど真っ直ぐ俺を見つめた。 「……いや。その……実優がここ数日泊ってたし、それに」 「……だって実優ちゃん風邪ひいてたんだし、松原いなかったし、しょうがないじゃん」  笑ってろよ。って筋肉に命じる。けど、いまにも引き攣りそうだった。  頭ん中がざわざわうるさくて、ぐつぐつ熱が回っていってる気がする。 「そうなんだけど……」 「別になにも気にしてないよ」 「……うん。でも、もし……なにか俺にたいして思うことあうんだったら言ってほしいんだ」 「……ないよ」 「本当に?」 「うん」 「……本当に、用事?」 「なんで? 信用してない?」 「……そうじゃない。けど、でも急にだったから」 「……だから思い出して」 「俺に電話があってから?」 「そうだよ」  ――うざ、い。  友達と約束あるって言ってんだからそれでいいのに。  忘れてたって言ってんだからそれでいいのに。 「……わかった。でも、もし捺くんが実優のことを」  優斗さんの手が、俺の手を取ろうと伸びてくる。  やばい。  頭がぐらぐらする。 「気にしてるんだったら」  喋りながら俺の腕に触れようとした、その手を―― 「……うっせーな。なんでもねーって言ってんだろっ」  俺は――払いのけていた。

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