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第5夜 第36話

「一体築何十年だろうっていう古くて狭いアパートにね、母と姉さんと三人で暮らしてたんだ、小さい頃」  語りだした優斗さんに俺はどう反応すればいいのかわからなくて、相槌だけ打つ。  でもすぐにあれって思った。  三人って、父親は……って。 「父親はね、詳しいことは知らないんだ」  そして俺の思考をよみとったように優斗さんが言って、え、ってつい目をしばたたかせた。 「姉が生まれたあと一度離縁して、数年後復縁して俺が生まれて。でも結局はまた離縁したらしい。それが俺がたぶん1歳とかだったみたいだから父親の記憶は全然ないんだよね」  優斗さんはやっぱりほんの少し笑ったけど、俺はびっくりして食い入るように優斗さんを見つめてしまった。  だって……優斗さんは両親に恵まれて可愛がられて育ったんだろうなって、勝手に想像してたから。  だけどそう思って、違和感を覚えた。  どこでだったか俺最近――……。 「ちなみに俺と姉さんは8歳差なんだ。明るくて元気でバイタリティのある人だったよ」  お姉さんの話をする優斗さんは俺がよく知る優しい笑顔を浮かべていたから、俺は違和感がなんだったか考えるのをやめた。 「一生懸命でガンバリ屋で、なんでもこなしてたな。わがままばっかりの俺に文句ひとつ言わずに、まぁでも悪戯がすぎると怒られはしたけど――……面倒見てくれてた」 「……いい人だったんだね」  俺の言葉に優斗さんは目を細める。  吸ってない煙草が灰になって、落ちていく。 「強い人だったな。――でも母は弱い人だった」  半分くらいになった煙草をくわえながら優斗さんが呟いた。  ……弱い?  聞き返したかったけど、優斗さんは笑顔を消してどこか遠くを見てて、声が出せなかった。 「たぶん父親を思い出させる俺と姉さんの顔をあんまり見たくなかったんじゃないかな。もちろん貧乏だったのもあるかもしれないけど、夜の仕事をしていてね。学校から帰るころに仕事に行ってしまって、あんまり一緒に過ごした記憶がないんだよね」 「……」  また、違和感。  優斗さんが話す"家族"のことは、俺が思ってもみなかったことばかりで少しづつ胸が苦しくなってくる。  頭の奥でなんかイヤな感覚が疼く。  なんだろう、これ。  わかりそうで、わからない気持ちの悪さ。 「まあでもたまに一緒に食事もしたことあったし、基本的に姉さんが母親代わりだったから……いいんだけど」  なにが、って訊きそうになった。  なにがいいの、って。  どんどんイヤな感覚が増していく。  そしてあっさり、優斗さんは気持ちの悪さの正体を、言った。 「それで母親が俺が7歳のときに出ていって」  意味がわからなかった。  だって――優斗さんは母親と姉の三人で暮らしてって言ってるのに、なんで母親が出ていく?  イヤな感覚に息が詰まる。 「出て……って」  聞き返さなきゃいいのに、聞き返してしまって。 「うん。簡単に言えば捨てられたってことかな」  ほんの少しだけ優斗さんは寂しそうに笑って。  俺は頭ん中が真っ白になるのを感じた。  ドクドク異様な速さで脈打つ心臓に、気持ち悪さが増す。  リアルじゃない言葉。  捨てられた――って、なに。  そんなもんニュースとかドラマとか漫画とか小説とか。  そんな、直接俺の生活には縁のない世界の言葉で。  それに優斗さんが関わってるなんて――信じられない。 「びっくりした?」  なんでもないことのみてーに訊かれて、小さく頷く。 「俺もびっくりしたな、あのときは」  そう言う優斗さんの声は淡々としていて冷静で、だから信じられない。 「ある日普通に出ていってそのまま帰ってこなかったんだけど、でも……姉さんは気づいてたんだと思う」 「……気づいて……?」 「母親が限界だって。"お母さんはちょっと出かけたけど、いつかまた会えるからさ。それまで二人で頑張ろうね"。と、姉さんはそれだけ言って笑って普通に夕飯の準備を始めてたな」  本当に強い人だよね、まだ中学生だったのに。  って懐かしむように笑うけど、俺はなんの反応もできなかった。  ザクザク、心臓のあたりを抉られてる気がする。  なんで、とか、どうして、とか、なんで、とか。  自分でもよくわかんねー言葉が浮かんで、消えてって。 「母親も身寄りがないひとだったみたいで俺達は必然的に施設に入ったんだ」  ――また聞き慣れない言葉。  俺はもう相槌も打つことができなかった。  たまに優斗さんが心配そうに俺を見る。  正直――聞きたくないって気持ちもあったけど、聞かなきゃいけない、って思って、小さく頷いて見せることしかできなかった。 「……施設に入ってたのは4年間半くらいかな。姉さんは高校入学と同時にバイトを初めて、そして高校卒業するとずっと貯めていたお金でアパートを借りたんだ」  人徳なんだろうなって優斗さんは続けた。  お姉さんのバイト先の人たちがとてもいい人たちで、そのままお姉さんはそこに就職してそしてアパートを借りるときの保証人にもなってくれた、ってことだった。  そう話す優斗さんはとくに苦しそうでも辛そうでも寂しそうでもなくて、いつもと変わらなく見えた。  でも……それが、痛い。  だって、だって。  俺はこの話の結末が"幸せ"じゃないって――知ってるから。 「そして義兄さん……実優の父親の治樹さんは姉さんと高校時代から付き合ってたんだ。義兄さんは大学に行っていたけどバイトをしながら俺達のアパートによく遊びに来てた。俺にもとても優しい人で……」  そこで優斗さんの顔がふと曇った。  ちらりと視線が手元に落ちて吸いかけの煙草を見る。  もうとっくに短くなってしまった煙草を灰皿に消して、もう一本煙草を取り出した。  新しい煙草をゆっくり吸って吐き出される紫煙。  俺はここから先の話を聞くのが……怖くてたまらない。 「ただ義兄さんはご両親から……姉さんとの交際を反対されてて……。それでも義兄さんは"本当は大学なんて行かずに働きたい"って言ってて……。それは俺達のためだったんだけど」  姉さんは止めてたけど結局途中で義兄さんは大学をやめてしまったんだ。 「義兄さんの父親がそれに激怒して姉さんとの交際のこともあって勘当されて。まぁ……勘当されるまでにもいろいろあったんだけどね。――家も出て、姉さんと義兄さんと俺と、また"三人"で暮らすようになった」  それは全部俺には想像できない現実。  優斗さんはさらっと話してるけど、そんな簡単な話じゃないって、わかる。 「義兄さんはなんていうかな姉さんと同じく明るくて元気な人だったんだけど、とにかく……」  昔を思い出すようにして優斗さんは楽しそうに笑った。 「待つことができない人だったんだ。姉さんと結婚したいっていつも言ってて、でも姉さんは二十歳になるまで待ってって言ってて。それで実際は二十歳寸前で結婚したんだ。実優を身籠ったから」 「……」  このまえ行った温泉で――松原と露天風呂で喋ったときのことを思い出した。 「妊娠が分かってからは毎日が慌ただしく過ぎていって、出産まではあっという間だった気がする。そして俺が小6のとき実優が生まれて――」  ――幸せだったな。  優斗さんの小さな呟きは小さすぎてあっという間に煙草の煙にかき消されて。  俺はあのとき、松原が言った言葉の意味を理解……しはじめていた。  実優ちゃんは優斗さんにとって……"たった一人の家族"。

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