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第6話

 駐車場にバイクを止めて、海の近くの板敷きの遊歩道を小蓮とゆっくり歩く。 「腰、伸ばしたほうがいいぞ」  小蓮の言葉に小さくうなずいた。 「疲れたか?」 「ううん……」  首を横に振る。  胸の中がもやもやしている。こういう時は、はっきり訊いてしまった方がいい。答えがくるかどうかは、別の問題だ。 「小蓮(シャオレン)……」 「ラウルだ」  そうだった。秘密の名前を教えてもらったのだ。 「じゃあ、ラウル……」  さすがに真正面から顔を見るのははばかられた。俯きつつ、慎重に言葉を口にする。 「さっきの、あの子……」  小蓮が波間に浮かぶ(カモメ)に視線をやった。 「あぁ、俺の息子だ」  遥は驚いた。小蓮は遥と歳は変わらない。あの子はいったい小蓮が何歳の時の子どもなのか。どうして、離ればなれになっているのか。あの父親のような男は誰なのか。 「息子って……ラウル、奥さんいたのか? 子供、捨てたのか?」 「結婚はしてない。それに俺は捨ててない」  一瞬の間があった。 「捨てられたんだ」  胸がどきんと鳴った。捨てられた? 子どもまで生した女性に?  記憶の底に沈めた澱が、遥の中で舞い上がってくる。 「捨てられた? 何故?」  小蓮を見上げて問う声が震えた。  小蓮は困ったような表情を浮かべたが、笑みをたたえて、遥を見つめ返してきた。 「俺が悪かったんだ……仕方ないさ」  なぜ、そんなことが言えるのか? 遥の父もそうだった。遥が母親のこと悪し様に言うと『俺が悪かったんだよ。仕方がなかったんだ』と、遥の怒りをなだめるように儚い笑みを浮かべた。  なぜ、ふたりとも相手に捨てられたのに、そんなことが言えるのだ? なぜ、思いやれる? 「大丈夫だ。遥、気にすんな。彼女も息子も今はきっと幸せだ」 「ラウルは、それでいいのか?」  遥は内面の乱れを必死にこらえて訊ねた。 「仕方ないさ」  小蓮はそう繰り返した。 「でも、俺はユーリとレイラが幸せならば、幸せだ。だから、大丈夫だ」  その笑顔に翳りはない。本心なのはわかる。わかるが遥の心は波だったままだ。  唐突に、小蓮が言った。 「ジェラート食べるか?」  ああ、小蓮はこの話を終わらせたがっている。  遥は無言で頷いた。  小蓮が護衛のリーダーらしき人物に合図を送ったのがわかった。するとチームの若いメンバーが売店に走って行き、すぐに両手にジェラートを持って走って戻ってきた。それを小蓮が受け取った。 「ありがとう。ほら……毒なんか入ってないと思うぞ」  笑えないジョークに苦笑が浮かんでしまった。差し出された三角のコーンを受け取る。  舌先で舐めると甘いミルク味がやさしく口に広がった。 「美味しい」  小蓮を見上げて微笑んだ。 「そりゃ良かった」  小蓮も笑って、自分のジェラートを舐めた。  小蓮にはまだ訊きたいことがある。同時に、訊きづらいことでもある。 「ラウルはさ……」  遥は遠慮がちに口を開いた。 「レヴァントをどう思ってるんだ?……その……無理やりだったんだろう?」  小蓮がわずかに目を見開いた。何か考えているようで、すぐに返事はなかった。 「俺は……」  遥は自分の思いをゆっくりと口にした。 「無理やりあいつに拐われて、いいようにされて……腹が立ってる部分も恨んでるところも憎んでるところもある。でも、俺があいつの番で、俺にしかあいつを守れない。だから、俺は生きている限り、あいつを守りきらなきゃと思う、男として。あいつは俺をガキ扱いするけど、あいつは俺がいなきゃダメな奴なんだ」  始まりを思い出せば、今でも許せないと思わないでもない。だが、遥は隆人を選び、凰となった。選んだ以上は、背負った責務は果たす。それが遥の矜持でもある。  思わず熱くなった遥を、小蓮が微笑んで見ていた。羞恥で頬に血が上るのを感じ、慌てて訊ねた。 「小蓮(シャオレン)は、ラウルはどうなのさ……」  小蓮の視線が海の果てへと向けられた。 「俺は……そうだな、やはり守らなきゃならないと思ってる。遥みたいに祈りの力は無いから、身体を張るしかないけどな」 「何故?」  なぜそこまで自分を凌辱した相手を思えるのだろう。純粋な疑問だった。 「俺にはあいつしかいなくて、あいつには俺にしかいないからさ。……あいつは、本当は優しくて真面目で繊細な男なんだ」 「繊細?……レヴァントが?」  意外なことを言われて、眉を寄せてしまった。だが、小蓮は小さくうなずいた。 「あぁそうだ。……そのあいつを、ミーシャをあんなふうに変えちまったのは、俺なんだ。だから俺はあいつを命に替えても守らなきゃならない。あいつの中の『ミーシャ』を守りたいんだ。お互いにたったひとりの『家族』だしな」  家族という言葉に心が揺れた。小蓮の目をのぞく。 「たったひとりの家族って……ラウルの親は?」 「オヤジは死んだ。母親の顔は知らない」  静かな眼差しに、罪悪感を覚えた。 「ごめん……」  家族。遥のたったひとりの家族――父は病気で亡くなった。遥をたったひとりで育てながらも、一度は海に沈もうとしかけた父。だから父が背負っていた重さを、遥はよく知っている。あれ以来、海が怖くなるほどに。  勝手に涙がこみ上げてきた。あっという間にあふれ出し、ぽとりと落ちた。  小蓮の手が髪をくしゃくしゃと撫でた。やさしい笑顔が浮かんでいる。 「遥……泣くな。いい父親だったよ、二人とも……。俺に後悔はない」  涙で詰まる声で必死に言った。 「俺も……俺の父さんもいい父親だった。本当に……。俺をひとりで育ててくれたんだ、ひとりで……」  体の震えが止まらない。弱いところを見せていると思うが、どうにもならない。  小蓮が遥の肩をそっと抱いてくれた。それはしっかりとした感触で、温もりとともに遥の心に染みこんできた。まるで何か赦しを与えられたような、そんな気がした。  肩を寄せ合うふたりの頭上を、鴎が一羽、白い腹を見せて飛び去った。

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