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第15話 証拠

 授業をサボったのは、初めてだった。  しかも、行くべき教室のすぐ傍に立っているというのに。伊織は今さら、視聴覚室へ出向く気にはなれなかった。向こうからうっすらと、教師が話す声が聞こえてきたが構いはしなかった。  「……嘘。嘘だよな、そんなの」  金縛りが解けたのは、江森の告白を聞いてからたっぷり三十秒は経ってからのことであった。  信じられなかった。  今こうして、彼の腕に抱きしめられているだけでも信じがたいのに。ましてや彼女を持つ江森が、男である自分のことなどを好きになるはずがない、なってくれるわけがないと思っていた。だからたった今なされた告白も、何かの冗談なのだろうと疑わなかった。  「いや、嘘じゃない。マジ」  背中にまわされた腕に、力が込められる。  耳元で聞こえた声は、まっすぐなものだった。いつもは何かにつけて冗談を言ったり、おどけたりする江森には珍しいことだった。  腕が解かれる。江森は真正面から伊織を見つめてきた。  ぼやけた視界の中、今まで見たことのないほど真剣な色をたたえた江森の瞳と視線がぶつかる。  これが演技だというのか。冗談だというのか。  態度でそう訴えかけてきているように思えた。  「だ、だって彼女、彼女は? いるって前に言ってただろ」  「こないだ別れた」  唖然とした。あんぐりと口を開けている様が可笑しかったのか、江森は短く笑い声を上げた。  「なんで……。どうして別れちゃったんだよ」  「どうしてって……、元はと言えば佐倉のせいで別れたんだけど」  いや、は言い過ぎか、という呟きがつけ足される。  俺のせいとはどういうことだ。目でたずねると、江森はちゃんとそれに気がつき詳しい話をし始めた。  「まあ、俺が彼女の方からフラれたってだけの話なんだけどさ。そういう時って一応、 理由とか聞くじゃん? そうしたら『あんた、私より他に好きな人がいるんでしょ』って答えが返ってきたから、いねぇよそんな人って答えたら『隠したって分かるわよ。だって今の江森、誰かに恋してる顔してるもん』って言われた。女の勘って、すごいよな。それ言われた直後は俺も意味分かんなかったけど、よくよく考えたら俺あのキスの後、佐倉のことばっかり考えてるなって気がついたんだ。それが佐倉への好意だって気づくのに、半月くらいかかったけど」  「……好意だって、どうして分かったの」  両目と頬を濡らした涙を手の甲で拭き取りながら、伊織は聞いた。  「うーん……、なんて言えばいいかな。とにかく、ふとした時に考えてるのがお前のことだったから、きっとこれは恋なんだって思った。小学生の時にした初恋の感覚とよく似てたのが決め手」  「相手が男なのに、おかしいとか思わなかったの」  俺は思った。正直に述べると、また笑い声がした。  何がおかしいんだと睨みつける。すると江森は、一瞬だけたじろいだ様子を見せた後、困ったようにまた笑った。  「まあ、最初は不思議だったよ。けどさ、別にいいやって思った。男だろうが女だろうが、俺は佐倉が好き。その気持ちに絶対、間違いはないから」  絶対など、伊織は信じていなかった。  必ずだと交わした約束事は、果たされることもなく彼の目の前で炎とともに焼失した。願えば叶うとか、夢は叶うとか、そんな言葉を聞く度に冷めた気持ちになった。この世界には、必ずや絶対は存在しない。大抵は、たまたま運よく事が運ばれただけなのだ。こうして生きているのだって、ただ運がよかったからに過ぎない。  そのことを誰よりもよく分かっていたつもりだった。  しかし、今は冷笑することもなく江森をじっと見つめていた。疑念は湧かなかった。間違いはないと断言する声が、表情が、まっすぐに温かく伊織を包み込んだ。  胸の中が、目の前に立つ男への愛おしさでいっぱいになる。  「証拠は」  気持ちが溢れ出して身動きが取れなくなる前に、口を開く。  直感的に、彼のことを疑う素振りを見せるのはこれが最後だと悟った。根拠もない予感を、伊織は心の底から信じた。  「俺のことを本当に好きだっていう証拠が見たい」  丸く見開かれた江森の目を、少しの揺るぎもなく見つめ返す。  やわらかく微笑み返され、胸の奥がきゅっとなった。  いいよ。一言だけ、優しい声で告げられた。直後、彼の手に誘われ伊織は吸い込まれるように江森の腕の中に収まった。微かな動揺を覚えたのはほんの一瞬で、口づけられるとすぐに何もかもを忘れた。そこが学校内の廊下であること。授業中なこと。誰かに見られるかもしれないという不安。全てがどうでもいいことのように思えた。  「まだ続けたいって思ってる。これって証拠になる?」  触れ合うだけのキスをした後で問われた。  伊織はうなずいて、自分も同じ気持ちだと伝えた。すぐ目の前に、嬉しそうな笑顔がある。大人の男として成熟するにはまだ早い、子供らしさの残った笑顔。  どちらからともなく唇を重ね、抱き合った。  熱を帯びた接吻と抱擁は、その場ではほんの数分間だけ続けられた。

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