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第17話 好きになる、ということ

 トイレを出た後、二人は伊織のクラスに向かった。江森のクラスもその隣りのクラスも、それぞれの教室で授業中だった。二人きりで教室にいると、まるでこの世界にも二人きりしかいないような錯覚をおぼえた。他に誰もいなくても江森と二人きりで生きていけるならそれでいいとも考えた。  つき合ってくれないかと交際を申し込まれたのは、二十分ほど他愛のない話を交わしてからだった。  唐突だった。だが驚きよりも、喜びの方が勝った。  こらえきれずに笑みを浮かべて快諾すると、向かいの席に座り息を潜めて伊織の答えを待っていた江森の顔にも安堵したような笑顔が広がった。伊織はこの時、彼を初めて可愛いと感じた。  チャイムが五時限目の終わりを知らせた。授業に出席しなかった件をクラスメイトや教師に聞かれた時には、適当に誤魔化した。口をついて出た嘘は、やはり体調不良だった。悪気は微塵も感じなかった。  放課後、伊織はまた江森とバッティングセンターへ足を運んだ。今日が木曜日でよかったと、信じてもいない神に感謝したくなった。  「部活、またサボったりして大丈夫なの?」  「へーき。何かにつけて噛みついてきてた一年もやっと指示に従うようになってきたし、今頃は同じ二年の奴らがみっちりしごいてくれてんだろ」  「四番の江森がいなかったら、一年の子たちは残念がるんじゃないの」  「いいんだよ、俺がいなくても。あいつらに俺の奥義を教えるには、まだ早すぎる」  「何かっこつけてんの。来年の今頃は受験勉強で忙しいんだから、今の内に残せるものはちゃんと残してあげなきゃ」  「……佐倉って時々、母親みたいなこと言うよな」  この日はバットを振るよりも、会話をする時間の方が長かった。  話の内容は、学校での出来事が多数を占めた。江森は部活のこと以外は自分の話をしてこなかった。それが意図的なものだったのか特に意識はしていなかったのか、伊織には分からなかった。  ただ、これからはお互いのことを気兼ねなく知ることができる。それだけは確かだった。もう自分たちは恋人同士なのだから、好きなだけ江森に質問することができる。ずっと好きで、憧れてはいたけれど、伊織はまだ彼のことをよく知らなかった。好きな食べ物や苦手な科目、誕生日すら知らない。  「……あのさ。さっきのことなんだけど」  「ん? さっきって、いつのこと?」  「俺が視聴覚室に行こうとしてた時のこと。あの時、なんで急にお前が目の前に現れたのか分からなかった。もしかして、俺があの時間にあの場所を通ること予想してたのかなって」  江森にたずねたいことは山ほどあった。はやる気持ちを抑え、伊織はまず数時間前からずっと気になっていたことについて問いを投げかけた。  あの時、江森は「ついさっきまでは我慢できてた」と言っていた。  ついさっきとは具体的にいつのことで、何が彼を突き動かしたのか。それまでは伊織に接触することさえしなかった彼が、今日になっていきなり行動を起こした理由とは何だったのか。  「予想っていうか……、もしかしたら通るかなーって軽い気持ちで待ち伏せてたんだ。昼休みにお前のクラスの奴と話してて、そいつが次の授業は視聴覚室に行かなきゃならないって()だるそうに言ってるのを聞いたから、佐倉も同じなんだろうなって思って。……で、視聴覚室の傍で待ち伏せてたら捕まえられるかもって考えたら、なんか、いてもたってもいられなくなったっていうか……」  「俺に話を聞きたいなら、昼休みに図書室に来る方が手っ取り早かったんじゃ」  「行ったよ、何回も。でも、その時は全然逢えなかった。毎日のように通ってると思ってたから、なんでいないんだよって不思議だった。よくよく考えたらお前、俺のこと避けてただろ」  「避けるに決まってる。だって……あんな、喧嘩別れみたいなことしたんだから」  「あ、俺それも気になってた。あれってやっぱり、わざと? 男同士だし、俺には彼女がいたから?」  素直にうなずいた。もはや、否定する理由もなかった。嘘をついたところできっと彼には通じないと思った。片想いだった頃は何としてもこの気持ちを悟られてはいけないと必死だったのに、想いが通じ合った途端、自分でも不思議なくらいあっさりと伊織は江森に心を開いた。思っていること、考えていることは何でもいいから話してみたくなった。  今まで誰にも話せなかった鬱屈とした過去も、じきに江森へ話せる時が来るのだろうか。  全てをさらけ出すのは、まだ怖い。  だから少しずつ、一歩ずつでもいいから前に進みたい。そうしていつしか、江森の隣りに並んでちゃんと歩いて行けるようになりたかった。  「好きになって、ごめんって思った。男同士だし、こんな自分が好きになっていい相手じゃないって。俺、こんなに地味だし何のとりえもないから。好きなことに全力で打ち込んで輝いてる江森が、いつも眩しかった。手を伸ばしても、届かないどころか身を(ほろ)ぼすと思った。でもどうしようもなく好きでお前の姿を見かける度に嬉しかった。嬉しかったのに、いつも怯えてた」  息を吐く。そして吸う。バットが球を打つ高い音が、少しだけ遠くに聞こえた。  「お前に彼女がいるって知って、目の前が真っ暗になった。でも同時に、納得したんだ。こんなにかっこよくて素敵な奴に、相手がいないはずないって。ましてやその相手は俺なんかじゃないって。だから……、思いきり嫌われてやろうと思った。キスした理由はそういうこと。どうかしてる、気持ち悪い奴だってお前に思われようとしたんだ。同時に俺も気持ちを断ち切ろうとした。もう二度とお前に逢うこともないと思ってた。学校で見かけても、声かけられても無視してやろうと思ってた。江森は何も悪くないのに、俺は心の何処かでずっと江森のせいにしてたんだ。……理不尽だよな」  幻滅した? と自嘲的に笑う。  伊織の独白を、江森は黙って聞いていた。話している間中、彼の方には顔を向けなかった。力なく膝に置いた手を見つめていた。  こんなことを話して何になるのだろう。  自分語りなんてしても、江森が喜ぶとは思えなかった。なんとなく話したくなったから、というただそれだけの理由で口を開いてしまったことを後悔した。江森のことを聞きたかったはずが、いつの間にやら話をしているのは自分ばかりだ。  傍で、ため息を吐かれた。呆れたというよりも、感心したといった具合だったのが、意外だった。  「……初めてだ」  「何が」  「佐倉がこんなに思っていることを話してくれたの、初めて」  なんか嬉しい、と笑う江森の横顔に胸の奥がきゅんとうずいた。  頬に触れたかった。人目も憚らず、口づけたい。湧き起こった衝動は、江森の声によって抑制された。  「なるほどな。それで、佐倉と俺は住んでる世界が違う、って言ったんだな。なあ、今でもそう思ってる?」  「……分からないけど、多分、思ってる」  膝にのせた左手に、江森の右手が重なる。ずいっと顔を近づけられ、伊織は反射的に首をすくめた。  「こんなに近くにいるのに? まだ俺とは別世界にいるって感じる?」  「っ、身体の近さは関係ない。俺と江森じゃ見ている景色が全然違うって意味」  「え、景色? 何が違うの、俺ら同じ時間軸に存在してるじゃん」  「マンガみたいなことを言うな」  はぁ、と深いため息が口から漏れた。説明するのがひどく難しく思える。江森はきっと、スポーツは万能だけどテストの成績はあまりよくないタイプの男だろうと思った。運動も勉強も、可もなく不可もない自分よりは突出したものがあるだけいいのかもしれないとも感じた。  「……とにかく、俺とお前とじゃ根本的に違うだろ。俺は明るい性格じゃないし、これといった特徴も特技もない。反対に江森はうるさいくらいに明るくて、野球も得意で人づき合いも上手い。既にこれだけの違いがあるのに、まだ俺と全く同じ景色を見てるって思う?」  「特徴ならあるじゃん。佐倉は美人なんだし」  横槍を入れられ、伊織は嘆息しながら頭を垂れた。美人だと言われただけで赤面している自分自身を呪いたくなった。  「けどさ」  何やら唸り声を上げていた江森が反論してきた。  「違うとこがあるから、だから誰かを好きになるんじゃねぇの」  見上げた顔は、不思議そうだった。  そのまま、しばし見つめ合った。以前の伊織なら目が合っただけで動揺していたのに、この時は江森の方がよほど落ち着きがなかった。彼の視線は伊織と、その周囲をぐるぐるとさまよっていた。  伊織は感心していた。返す言葉が容易に見つけられないほどだった。  「……そういうもの、なのか」  「あ、ああ……。まあ、少なからずの共通点があった方が他人と打ち解けやすいとは思うけどな。でも、恋って多分そんな風に一筋縄でいくものじゃないんだと思う。俺も、佐倉のことが好きかもしれないって気づいた時、どうして好きなのかって散々考えたんだけどさ、よく分からなかったんだよ。誰かを好きになるのに理由は必要ないって言葉はよく聞くけど、その通りだなって思った」  初めて誰かを好きになった。相手は同性で、彼への気持ちに気がついた時、伊織は激しく動揺した。そして焦った。きっと自分は、普通じゃないんだと思った。だから好きだと口にすることを放棄した。彼のことを考えてしまい眠れない夜は、何故こんなにも激しい感情に突き動かされるのか考えた。加えて、彼の何処に強く惹かれるのかも考えた。どちらも答えは出なかった。焦燥の色が濃くなっていくばかりだった。  少し前まで伊織が悶々と悩み続けていたことへ、江森はたった今あっさりと結論をつけた。やはり自分とはものの見方が違うのだと見せつけられた。  それでもなお、伊織は江森に惹かれた。  他人へ好意を抱くのに理由は必要ないという江森の言葉が、現実味を帯びた。心の何処かが、空中に浮かんだみたいに軽くなったような気がした。  「……野球馬鹿なくせに、さも頭よさそうに振る舞ってんじゃねぇよ」  「馬鹿は余計だろ……。というか、野球の天才って言って欲しい」  誰が言うか。素っ気なく言い放ち、そろそろ帰ろうと促す。  江森はむくれた顔をしながらも、伊織に続いて立ち上がった。この子供っぽさは、一体いつになったら抜けるのやらと伊織はこっそり苦笑した。

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