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第18話 雪虫が舞う帰り道
吐いた息は白みがかっていた。この街中も、そろそろイルミネーションで飾りつけられる頃合いだ。クリスマスの一か月前ともなると、街の雰囲気は意味もなく華やかになる。
クリスマスイブは終業式だ。翌日からは長い冬休みに入る。
その頃のことをぼんやりと考えていた伊織は、隣りで聞こえたくしゃみに驚き、肩をすくめた。
「大丈夫? 汗かいて身体が冷えた?」
「……ん。いや、平気。ちょっと鼻がむずむずしただけ」
鼻の下あたりに手を当てて、江森が答える。
持っていたポケットティッシュを差し出してやると、彼は礼を言ってからそれを受け取り、鼻をかんだ。自分とは違って正直で素直な江森の性格を、伊織は好ましく思っていた。
「月が替わった途端、冷え込んできたよな。きっと、俺の実家では今頃、雪虫が飛んでるな」
「……雪虫?」
名前くらいは聞いたことがあった。虫だとは分かるものの、どのような姿かたちをしていてどんな場所に生息しているのかなど、詳細は何一つ知らなかった。
「こういう街中では、あんまり見かけないかもな。こっちでも自然の多い公園なんかではよく飛んでるよ。羽虫で、身体に白くてふわふわした綿みたいなのがついてる虫なんだ。飛んでる姿が雪みたいだから、よく出没する地域では雪虫って呼ばれてる。本当の名前は知らないけど」
見たことない? と問われ、伊織は首を横に振った。
想像してみても、どんな光景なのかいまいち分からない。雪虫を見たことがあるらしい江森にどんな様子かとたずねてみる。
「虫が苦手な奴には嫌な光景だろうけど、俺は結構、きれいだなって思った。毎年、雪が降り始める少し前の時期になると実家の周りを飛びまわっててさ、それを小さい時からよく見てたし馴染みのある虫なんだよな」
「江森の実家って、何処なの?」
「ここよりもずっと田舎の方。佐倉はここが地元?」
うなずく。思わず目を伏せてしまったのは、まだ両親が生きていた頃のことを思い出したからだ。
今の養父母に引き取られたのは、実家から比較的近いところに住んでいたからという理由が最も大きい。引っ越す際の荷物はそれほど多くはなかったものの、もともと住んでいたアパートの一室を引き払う際の手続きや家具の処分などを行わなければいけなかった。まだ中学生だった伊織にはそれら全てを行えるわけもなく、渋々といった具合で養父母が名乗りを上げたのだ。無論、そこに伊織への憂慮や同情は欠片も見受けられなかった。半ば他の親戚の者たちから押しつけられたも同然だった。伊織にとっても養父母にとっても、納得のいく結果ではなかったのだ。
国からわずかばかりの補助金をもらえる制度がなければ、伊織はとっくに見捨てられていたかもしれない。結局は、金がものを言う世の中なのだと痛感し、早く高校生になってアルバイトをしたいと思った。そうして、あんな家とはさっさとおさらばするのだと。
「佐倉? どうした、なんか今ぼーっとしてなかった?」
暗がりに向かいかけた気持ちが、江森の声によって浮上する。伊織は彼に顔を向け、何でもないと微笑んだ。
「雪みたいに飛ぶ虫か……。ちょっと、見てみたい」
「まあ、本物の雪の方が何倍もきれいだとは思うけどな。いくら雪みたいだとはいえ、虫は虫だし」
「たくさん飛んでて、それが全部虫だって考えたら怖いかもな」
雪虫の話は、それからもしばらく続いた。何年か前はこの街でも大量発生したんだぜと、江森が苦笑しながら言った時には頬がひきつった。伊織も虫は平気な方だが、あまりにもたくさん飛び交っている様を見るのはさすがに気持ち悪かった。
江森はどんなところで生まれ育ったんだろう。
会話をしながら、伊織は見たこともない江森の故郷について思いを馳せた。田舎で自然に囲まれた家を想像してみる。あまりにも牧歌的で、争い事など何も起こりようのなさそうな風景が頭の中に浮かんだ。そのようなところでのびのびと育ったから、こういう男に成長したのかと笑う江森の横顔を見やる。
同じような環境で育てられれば、あるいは自分も彼と同じような性格になったのだろうか。
いつか江森の故郷をおとずれてみたい。新しい願望が、胸の内に芽生えた。
「あっ、そうだ。佐倉にまた逢ったら、これを渡そうと思ってたんだった」
もう少しで地下鉄に降りるという時、江森が立ち止まった。何やらカバンの中に手を入れて探っている。
ほい、と軽い口調とともに差し出されたのは、見覚えのある封筒だった。
「別れ際に、落としてっただろ。三千円はもったいないし、拾っておいた」
「これ……、あの時の」
二度目に江森と一緒にバッティングセンターへおとずれ、想いを断ち切るためにキスをしたあの日に彼からもらった図書カードだった。小さい白色の封筒は、一部分が微かに汚れていた。
「持っててくれたんだ」
「面と向かって渡せる時が来るとは思ってなかったけどな。佐倉がいない隙にC組に行って、机の中に入れようかとも考えたんだけど、なかなか実行する勇気が湧かなかった」
今度はちゃんともらってくれる? 首をかしげながら問われた。
まるでプロポーズでもする時のような、満ち足りた表情だった。受け取る瞬間、妙に緊張したのはそのためだ。
「……ありがとう。大事に使う」
「さっそく本屋行くか? 読みたい本とかあるだろ」
「やめとく。読みかけにしたままのがあるから、今日からしばらくはそれを読むよ。本屋は……、また今度、つき合って」
「佐倉って、本当に照れ屋だよな。やっぱ可愛い」
うるせぇと剣呑な声を出しながら、伊織は江森の腕を小突いた。
江森が笑いながら先に駅へ続く階段を下ろうとする。その姿を後ろから眺め、後に続こうとした時。
視界の隅に、ちらりと白いものが映り込んだ。
「待って、江森」
瞬時にそれだけ言い、伊織は空を見上げた。
彼の言動を不思議に思ったらしい江森が、降りかけた階段を上ってくる。そして、伊織と同じように上を向いた。
白い、ふわふわした、綿みたいなの。
先ほど江森が形容したそのものが、空中を舞っている。
「雪だ」
空を見ながら、呆然と江森が呟いた。隣りで同じ光景を見ている伊織は黙ってうなずいた。初雪は音もなく二人のいる地上に降り続けた。
きれいだと、素直な感想が心を埋め尽くす。
「どうりで寒いはずだよな……」
何処か憂うつとした響きを含んだ声を聞いた。
直後、鼻の奥がむずむずとした。それこそ小さな虫が中に入り込んでいるかのような、不快感。
江森が先ほどしたのと変わらないくらいに大きなくしゃみが出た。
「寒い?」
「ううん。平気」
咄嗟に手の甲で押さえた鼻をぐずつかせながら答える。江森に声をかけて階段を下りようとした。
一歩踏み出した時。左手に温かいものが触れた。
立ち止まって見てみると、その正体は江森の手だった。色白で細く長い指をした伊織の手に、しっかりとだが優しく重ねられていた。好きな人と手を繋いでいるのだと理解した途端、顔が熱を持った。
「こうすれば、少しはあったかい?」
屈託のない笑顔が、ただ愛おしかった。
「……うん。あったかい」
手の平から伝わる江森の体温は全身にも伝わり、やがて心へ到達した。
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