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第19話 想い

 空想する。  雲一つない澄みきった青空。今は夏で、強い日光が頭上から降り注いでいる。  広いグラウンドでは熱闘が繰り広げられている。マウンドから放たれた白球を、相手チームのバッターがセンター方向へ打ち返した。鋭い打球を捕球しようと、選手が食らいつく。自分はその様子を、少し高い位置から見下ろしている。  土の香りを嗅いだような気がした。  机の上に本を開いたまま、伊織は一息ついた。書面上で繰り広げられる熱い展開に、時間も忘れて引き込まれていた。  江森と出会って間もない頃に買った、青春小説。高校野球を題材にしたそれは、序盤のあたりにしおりが挟まれた後、しばらく放置された。読書をする気が起こらなかったから、という理由よりも、内容が江森を想起させるから読んでいてつらかったのだ。もう二度と手をつけないまま部屋の片隅に置かれるものだと思っていた。だけど、そうはならなかった。  甲子園。聞いたことくらいはあったが、実際に目にしたことはもちろんない。  どんなところなのか。伊織は小説を読みながら想像してみた。雰囲気、空気、匂い。それらを書面を通して感じ取る。  かつて、江森も行った舞台。  彼はそこでどんな景色を見て、何を感じたのか。  別れ際のやり取りを思い出していた。  「そういえばさ、俺たち連絡先すら交換してなかったよな」  改札を通り、ホームへ続く階段を下りながら江森は思い出したように伊織を振り返った。手にはスマートフォンが握られていた。ボディの色はオレンジ。彼によく似合う色だと思った。  上着のポケットから自分のスマートフォンを取り出す。  落ち着いている、というよりは暗いと揶揄されそうなネイビー。オレンジとはまるで正反対の色だ。けれど伊織はこの色を気に入っていた。小さかった頃、両親と真夏の夜に星を見に行ったことがある。その時に見上げた満天の星空。ネイビーは星を一つ残らず取り除いた夜空の色に似ている気がした。  「へぇ。佐倉の、古い機種だな。何年前のやつ?」  「中学の入学式の日に買ってもらったから……、もう四年以上」  「新しいのに変えないのか?」  「前にも言ったけど、金がないんだよ。古くても今のところはまだ異常なく使えてるし、当分はこのままだと思う」  ふーんと、さして興味もなさそうに鼻を鳴らし、江森は「とりあえず佐倉のアドレス教えて」と言った。  連絡先を交換し終えると、電車の到着を告げるアナウンスが鳴り響いた。  「江森が住んでるとこって、ここから近いの」  「三駅隣り。学校の最寄り駅とは一駅しか離れてないんだぜ」  頑張れば自転車でも通える距離、と彼は笑った。面倒だからなるべく地下鉄を使ってるともつけ足した。  一人暮らしだろうか。  食事はどうしているのだろう。まさか自炊をしているのだろうか。料理をしている姿なんて、想像もつかない。  まだ何一つ、江森のことを知れていない。  何でもいいから聞きたいと思った。  だが口を開く前に電車がきた。ホームに轟音が響くとともに、生温かい風が吹く。隣りに立ってまだ楽し気な笑みを過らせている江森の髪が突風に揺れていた。今、目にしている光景を、伊織は心に焼きつけた。  ドアが開く。乗車しようとした時、手を引かれた。  乗らないの? あどけなさの残った笑顔が、そうたずねていた。  江森に続いて伊織は電車に乗り込んだ。けれど手は繋がなかった。  初雪を眺めながら握られた手も、繋いでいた時間はごく短かった。まだ周りの目を気にしている己の度胸のなさに悔しくなった。その手を強く握り返せばよかったと後悔した。  車内は、ほどよく混んでいた。  座席はほとんど埋まっていて、二人で座れるところはなかった。乗車口の近くの手すりにつかまって、寄り添うように立った。  三駅分、声を潜めて雑談した。そのほとんどは声を潜めてまで話すことでもなかったが、楽しかった。少なくとも伊織はそうだった。江森は終始、笑顔だったけれど、心の中では何を考えているのか見当もつかなかった。相手の心中を見透かす能力があればと、馬鹿げたことを思った。  「明日の昼休み、図書室に行くから」  江森が降りる駅に着き、ドアが開く直前になって告げられた。  うん、と伊織はうなずいた。また明日と言った声が発車を知らせる音に遮られる。  ドア越しに、江森はこちらへ手を上げて別れのあいさつをしてきた。小さく手を振り返していると、間もなく電車が動き出す。発車の振動に足がふらついて、伊織はあわてて手すりにつかまった。  明日もまた、江森に会える。  けれど、明日になるまでは会えない。  片時も離れたくないと思った。ずっと一緒にいたかった。  寂しい。たった今まで隣りに並んで話していて、楽しいと感じたばかりなのに。一人きりになった途端、心細くなる。  これほどまでに、俺は江森が好きなんだ。  誰かを好きになると、なおさら独りぼっちが怖くなるのか。  窓の外に見えていた街並みが、轟音とともに消える。真っ暗になったそこに、自分の顔が映っている。  人恋しい、といった表情をしていた。  文面から目をそらし、目覚まし時計を見る。十二時半をまわるところだった。三時間近くもの間、読書をしていた。数ページしか読まずに放置されていた小説を、残り三十ページほどまで読み進めた。文章を目でたどる度に頭の中で情景を描きながら読んでいたせいもあって、同じページ数であったとしても普段より時間を費やした。  真剣に取り組んだ甲斐もあり、読み始めた頃よりもさらに野球に詳しくなれた気がした。今までは目にしたことはあっても素通りしていた用語の意味なども、たくさん知ることができた。にわかながらに、野球とは奥が深いスポーツなのだという感想を抱いた。  あくびが出る。  あともう少しで読了できるところまできているが、そろそろ寝なければ朝がつらい。きりのいい箇所まで目を通し、伊織はしおりを挟んで本を閉じた。  年代もののベッドは、伊織が片足を乗せただけできしんだ音を立てた。  寝転がって毛布を身体にかけると、重さに耐えかねたまぶたが落ちてきた。  長くて、素敵な一日だった。つむったまぶたの裏に、色々な光景を思い出した。  江森に抱きしめられた時の温もり。彼の匂い。涙が頬を伝う感触。  雪が舞っていた街の景色。手を握られて頬に血が通った時の感覚。地下鉄で感じた、生ぬるい風。  どの瞬間にも、大好きな人の笑顔を垣間見たような気がした。  恋をして、苦しいと感じた時もあった。以前、伊織はそれを「江森のせいだ」と思った。正確には思い込もうとした。彼と出会って、多くのことを知った。関心のなかった野球のことや、誰かを好きになるという感情。それらは彼と出会わなければ知り得なかったことだった。  臆病な心を突き動かし、人との距離を上手く取れずにもがいていた伊織の背中を、押してくれた。だから、一歩だけでも前に進むことができた。  「江森のおかげだよ」  眠りに落ちる寸前、伊織は記憶の中で笑う江森に話しかけた。    ありがとう。と小さく呟いた声が震えた。

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