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第21話 運命
心地のよい音楽が流れている。ジャズだ。ピアノの静かな音、ベースの低音が眠気を誘う。最初はゆったりと揺れるみたいに流れていた曲調が、途中からドラムが加わりテンポのいいものに変わった。「Waltz For Debby」という曲なのだと、伊織は店長に教えてもらった。バイトをしている合間に耳にした曲の中では、一番のお気に入りだ。
「まさか、佐倉のバイト先に来ることになるとはなぁ」
カウンターの向こうから聞こえた声は、まだ信じられないという響きを含んでいた。江森から好きだと言われた直後に自分が発したものとよく似ていた。
皿を洗う手を休めず顔も上げず、伊織は視線だけを前方に向けた。
カウンター席に座った江森は、頬杖をついてこちらを見ていた。目が合った途端に微笑が広がる。いや、にやけていると表現するのが正しいか。
「……あんまり、じろじろ見ないで。他のお客さんが変に思うだろ」
「変って、どういう風に?」
「そのままの意味でだよ」
視線を手元に落とし、ため息をつく。
本当に、何故こんな展開になったのだろう。
「まさかと言えばさ、びっくりしたよな。うちの学校でボヤ騒ぎが起きるなんて」
五時限目が始まっても、古文の担当教師はやって来なかった。いつもならば時間きっかりに来て授業が行われるはずだ。大人が不在の教室内は、やがて昼休みの騒々しさを取り戻していった。
一人の生徒が何気なく廊下へ出た。
彼は顔に浮かべた困惑をさらに濃くしてすぐに戻って来た。他の二クラスを覗きに行ってみると何処も同じ状況で、いつまで経っても教師が来ないのだという。大きな声で話すものだから、異常事態らしいことはクラスにいる全員へ知れ渡っただろう。
担任の教師が姿を見せたのは、それから十分後のことだった。
至って真面目な様子で、担任は事情を説明した。
学校の裏手にある茂みで、火災が発生したのだという。幸い、火の勢いは弱く、またすぐに発見されたためわずかな被害で済んだ。
当然のごとく、生徒の中に火の気を起こした者がいるのではないかという話になった。また、部外者による放火の可能性も推測された。いずれにしても物騒な話に変わりはなく、話を聞かされた生徒たちはみな一様に唖然とした。
その後、五時限目は自習となり、終業式は予定通り行われた。
侵入者によって放火されたという事件性も視野に入れられた結果、学校側は冬休み中の部活動を数日間は休止するという決定を下した。
放課後、嬉々とした表情で伊織をクラスまで迎えに来た江森の姿は忘れられない。教室の出入り口の前に立ってそわそわしている様は、まるで飼い主の帰りを玄関の前で待ちわびる小型犬のようだった。
「うん。びっくりした。てっきり、学校は俺たち生徒が犯人だって疑ってかかるんじゃないかと思ったけど」
「万が一を考えての判断だったんだろうな。俺、校長のこと初めて尊敬した」
尊敬、という言葉を使うにはあまりに軽々しい口調だった。
「江森はただ、部活に参加しなくてよくなったのが嬉しいだけだろ」
何も答えずに、江森は笑った。その通り。表情が物語っていた。
「そういえば佐倉、体調はもう大丈夫なの?」
食器をすべて洗い終え手を拭いていると、憂慮の含まれた声でたずねられた。近くにいたアルバイトの青年にも聞こえたらしく「え、佐倉くん具合悪いの?」と気遣わし気な眼差しを向けてきた。
「あ、いえ。なんともないですよ。さっき、ちょっとだけ立ちくらみがしただけですから」
「そう。あんまり無理しないようにね。学生はただでさえ忙しいんだからさ」
僕もまだ学生だけど。そう笑いながら客席へフレンチトーストを運んでいく彼は大学生だ。専攻は音楽科で、店内で流している曲目は彼が店長の好みも取り入れながら作成したものらしい。
まだ江森の視線を感じていた。
ボヤ騒ぎがあった現場を見てみたいと誘われ、ついて行ったのが間違いだった。
火災が発生した学校の裏手には、放課後になった直後にも関わらず人だかりができていた。いつの時代にも不謹慎なやじ馬はいるものだと、伊織は冷めた気持ちになった。
もっと近くで見たいと、手を引かれて茂みの方へ近づいた。
一部の草が真っ黒に焼け焦げた形で残っていた。周辺の雪面は、消火に使った水の影響か硬く凍りかけていた。
この日の天候はよく、風も弱かった。強風が吹いていたら被害はさらに拡大しただろう。裏山にまで火が広がれば大惨事だ。
燃えて黒く残された残骸。
もともとの正体はただの草だと分かっていても、だめだった。
ぐらりとした。立ちくらみだ。頭が鈍く痛みだす。伊織は片手で顔の半分を覆い、気持ちを落ち着かせようとした。思い出したくもない光景がよみがえりかける。この場に漂っていない焦げくさい匂いまでしてきそうだ。
傾きかけた身体を、誰かの手が支えてくれた。江森だった。
顔色が悪いと指摘され、心配された。大きな手に背中をさすられると少しだけ安心した。
いっそのこと、すべて話してしまえばすっきりするのかもしれない。
今の伊織には話を聞いてくれる人がいる。共感を得られるかどうかは別として、内に溜め込んだ過去や感情は誰かに話すことで吐き出せる。そうすれば、少しは気が楽になるのかもしれない。
江森なら、きっと最後まで聞いてくれる。受け入れて、笑い飛ばしてくれる。
そんな心強さを感じた。
「佐倉ってさ、どうしてここでバイトしようと思ったの?」
カップを口元へ運びかけた手を止め、江森が聞いてくる。彼がブラックコーヒーを好んで飲むとは、意外だった。性格は子供じみているのに、舌は一丁前に大人なのかと茶々を入れたいのを伊織はこらえた。
「どうしてって言われても……、たまたまだよ。古本屋に行く途中で店の前を通りかかったら、アルバイト募集の貼り紙がしてあったからなんとなく受けてみたってだけ。時給よかったし、やってみたら雰囲気も職場の人の人柄もよかったから今でもツイてたなって思う。運命の出会いってやつかって、ちょっと本気で考えた」
「運命……、俺たちみたいな?」
冗談めかしていた。だが、不思議と馬鹿にする気は起こらなかった。何も反応を示さない伊織を見て、江森は首をかしげた。
「……うん。そうかもな」
口元がほころぶのを隠しきれなかった。
江森の首がますますかしげられるのを目の端に見た。
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