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第22話 繋ぐ手
街は輝いていた。一つ残らず葉が落ちた街路樹は、色鮮やかな電飾に彩られ夏の息吹 を取り戻したかのように生き生きしていた。たくさんの人が行き交う白い道にも光が反射している。誰もが幸福そうな笑顔を浮かべていた。
うらやましい、とは思わなかった。
羨望の眼差しを向ける必要もないくらいに、今の自分も幸せだった。
「カバン、重そうだな。持とうか?」
江森が手を差し出して言う。右肩にかけたボストンバッグを一瞥し、伊織は遠慮した。彼が思っているほど重たいものは入っていない。着替えや日用雑貨、そして数冊の本。床に並べればあまりに少なく感じるだろう。重そうに見えるのは、中身の少なさに反して余計にバッグが大きいせいだ。このバッグと、通学カバンしか持っていないのだから仕方がない。
養父母のところへ引っ越す際に必要なもの一式を詰め込んだバッグだった。あれから使うこともほとんどなく、埃をかぶっていたのを引っ張り出し窓から払い、急遽 きれいにして使っているのだ。
アルバイトを終えたのは普段よりも早く、五時を過ぎた頃だった。
「今日はもうあがっていいよ。お友達、待ってるみたいだし」
白髪を首のつけ根あたりでまとめた初老の店長は、やわらかく微笑んで伊織に言った。笑い皴の刻まれた目尻が優し気に下がっていた。気を遣わせてしまったと思うと申し訳なかったが、好意に甘えることにした。
喫茶店を後にし、江森とともに地下鉄に乗った。前に一緒に乗った時よりも空いていて、二人並んで座ることができた。
同じ車両に乗っている人数が極端に少ない時を見計らって、寝たふりをして江森の肩に頭をもたせかけてみた。恋人同士らしいことを、してみたかった。勝手に行いほくそ笑んでいたら、椅子の端をつかんでいた手に一回り大きな手が重なった。意外に思って数本の指を持ち上げると、先の方が絡まった。思わず身を起こし、すぐそばにある江森の顔を見上げた。今度は彼がほくそ笑む番だった。寝たふりは最初から見抜かれていたのだ。
「支度してくるから、ここで待ってて」
伊織は一人で家の中に入った。鍵は開いていた。養母はもうパート先から帰っているようだ。だが、二人の間にあいさつが交わされることはなかった。
バッグに持って行きたいものを詰め込み、服を着替えた。
制服のままでも支障はなかったが、私服の方が動きやすく温かい。どれを着ようかと悩む様子が、まるで初デートに赴く時の女性のようだと思い苦笑した。比較的、最近になって貯めた金で買ったコーディネートに決め、家の前で待っていた江森と合流した。玄関を出る際、今日は友達の家に泊まる旨をリビングに向かって伝えたが、数秒待ってみても返答はなかった。
「親は泊まり、オーケーしてくれた?」
繁華街を歩きながら思い出したように江森が問うてくる。そういうことは、家を後にした直後に聞くものではないのかと伊織は心の中で突っ込んだ。
「うん。一日や二日くらい俺がいなくても、あの人たちには何の支障もないから大丈夫だろ」
「いやいや、自分の子供が丸一日帰って来なかったら、親は誰だって心配す――」
笑いながら発せられた江森の声は、途中で止んだ。
どうかしたのかと横目で彼を見上げる。珍しく険しい表情を浮かべていたために、なおさら不安になった。
「何、その顔。どうしたんだよ」
「……いや。ごめん、何でもない」
いつもならば笑って謝ってくるのが江森だ。
だが今は、そこに笑みは見受けられなかった。目線は伊織がいるのとは反対の方角へそらされていた。彼の態度が急変した理由が気になったものの、伊織は何も言わなかった。なんだか触れてはいけないことのように思えたからだ。
「で、大通りのある駅で降りたけど、これからどうするの」
江森の調子を取り戻そうと、伊織は話題を変えた。
予定では、荷物を取りに行った後、まっすぐ江森の住む家へ向かうはずだった。ところが、路線の中では最も人の出入りが激しい駅に到着した時、唐突に江森が立ち上がった。呆気に取られている伊織にただ一言「降りよう」と告げ、彼は電車を降りた。乗車してくる人の波にもまれながら、扉が閉まる直前に伊織もそれに続いた。
「さて、どうしようか」
ふむ、と鼻を鳴らしてから江森が言う。何も答えになっていない。
「……なんの考えもなくここで降りた、とか……?」
「うん。実はそうだったりする」
何やってんだよ。込み上げた文句を飲み込み、ため息に変換する。何故この男は、こんな時に行き当たりばったりな行動をしたがるのだろうか。
「だってさ、せっかく佐倉と一緒に過ごせるんだから遊んどかないと損だろ。なんたってクリスマスイブなんだし」
「遊ぶって……、何処で何をして?」
「それは……ほら、色々だよ。本屋に行ったり、ゲーセン行ったり」
「要するに、具体的な予定は何一つ考えてなかったってことだな」
「いいんだよっ、予定なんかなくても! よし、とりあえず本屋行こうぜ本屋。佐倉が気になってるのあるんだったら、俺もつき合うからさ」
「今は特に気になる本もないけど……。まあ、いいや。寒いし、何処かの店に入ろう」
ダッフルコートのポケットに両手を突っ込んで提案する。
寒冷地なため、マフラーは必需品と考え引っ越した年の冬に残っていた小遣いで新調した。大人になっても使えるものをと、柄も落ち着いたものを選んだ。去年の秋に買った紺色のコートと合わせるには、マフラーの深い紫は少し暗すぎる気もした。隣りを歩く江森のコートの色がベージュ色だから、自分だけがなおさら地味に見える。
考えれば考えるほど、自分たちは性格も好みもまるで正反対だった。違いがあるからこそ惹かれるのだと江森は言っていたが、あまりにも違い過ぎではないのか。
江森は俺のどんなところを好きになったんだろう。
「隙あり」
おどけた声がしたかと思うと、突然、片方の耳先をつままれた。伊織はくすぐったさに首を引っ込めた。
「また考え事してただろ。思慮が深いのはいいけどさ、今は何も考えないでもっと楽しもうぜ。せっかくデートしてるんだから」
「で、デートって……、こんな計画性のないのが……?」
「うぐっ。いいんだって、楽しければ! ほら、本屋行くぞ」
手を差し伸べられる。こんな人の多い場所で。
試されている。問われている、と思った。
まだ怖い? 人前に出て、男同士で手を繋ぐのはおかしいこと?
一か月前には、添えはしたけど握り返せなかった手。そこにある温かさと優しさは、あの時も今も伊織だけに向けられていた。江森は周りの目など気にしていなかった。どんな時でもまっすぐに、伊織だけを見つめていた。
どうしてこんな簡単なことに気づけなかったんだろう。
恐れていたのは、いつだって伊織の方だった。周囲の視線が気になって、躊躇っていたのは伊織だけだった。江森は初めから、何を恐れるでもなく歩み寄ってくれたのに。自分から暗がりに閉じこもっていた伊織の心に光を取り戻させてくれたのは、彼だったのに。
奥歯を噛んだ。ぎりぎりと音が鳴りそうなほどに強く。
申し訳なさから泣いてしまいそうだった。それをこらえるために、歯を食いしばった。長くは続けずに一瞬で終えた。
腕を伸ばす。もう躊躇いはなかった。
手を重ね、先のあたりを軽く握るとすぐに握り返された。
「うん、行こう」
イルミネーションに負けないくらい、江森の笑顔が目に眩しく輝いていた。繋いだ手は、しばらくそのままだった。
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