23 / 36

第23話 温かい食事

 江森の家へ着いたのは、八時を過ぎてからだった。  街で二時間は遊んでいた。本屋を物色した後、CDショップ、楽器店、雑貨屋を見てまわった。ゲームセンターではUFOキャッチャーで散財した挙句、安っぽい腕時計を二つ取った。色も形も同じものをとこだわって狙ったので、時間も金も予想以上にかかった。財布の中が一気に寂しくなったものの、伊織は心の底から楽しんでいた。  心許ない街灯に照らされた雪道を歩きながら、江森は今住んでいる家のことについて話し始めた。  「叔母さんが大家をしてるアパートの部屋を借りてるんだ。甥っ子だからって、ちょっとだけ料金を安くしてくれてる。まあ、家賃を含めてほとんどは実家の親からの仕送りでまかなってるんだけど」  ここがそう。何処にでもあるような二階建てアパートを指さし、江森は慣れた足取りで階段を上り始めた。降り積もった雪を靴の先で蹴落としながら進んでいく。「滑るから気をつけて」という気遣いの声にうなずき、伊織は彼の後を追いかけた。ところどころの段が凍りかけていて、何度か足を滑らせた。  四つある内の一つ、「柿沼(かきぬま)」という表札がかけられているドアの前で江森は伊織を待っていた。  「ここが叔母さんの部屋な。ちなみに娘――俺のいとこも一緒。俺の部屋はこの隣り。晩飯はいつも叔母さんにごちそうしてもらうんだ。今日は友達もつれて行くからって、自習してる合間にメールで知らせておいた。今夜はきっと、いつもより豪華なメニューが並ぶぞ。叔母さん、料理には自信あるからな」  「どんなふうにあいさつしたらいいんだろう……」  「……江森くんのです、とか?」  何も言わず腕にパンチを繰り出すと、江森は「冗談だって」と苦笑した。そろそろ、彼の言う冗談と本音の区別がつけられるようになりたいと思った。  「普通に、お邪魔しますとかでいいだろ。俺も友達として紹介するから」  「友達にしても、俺と江森にはなんの接点もない気がするんだけど……。どうして仲良くなったのかって聞かれたら?」  「野球の話で盛り上がって、って言えばいいんじゃね。佐倉、野球の本読んでからちょっと詳しくなったって前に言ってただろ」  「野球の本って言っても、専門書とかじゃないし。面白かったけど」  「小説だっけ。今度、俺にも貸して」  「そういう話になるかと思って、今日持ってきてるよ」  「おおっ。準備いいな。さっすが、俺のこ――」  江森がおどけて伊織の肩に腕をまわす。顔の近さに戸惑っていた時、キィと高い音を立てて目の前のドアが開かれた。勢いがよかったために、丁度ドアの真横に立っていた江森にぶつかった。痛々しい音に身をすくませ、反射的に閉じた目を伊織は恐る恐る開く。  「いってぇ……」  「いらっしゃい。待ってたわよ、ってあらっ?」  玄関先に出てきた女性は、にこやかな笑みを浮かべて伊織を歓迎した。長い茶髪を後ろの高い位置でひとまとめにし、メイクもばっちりなされている。歳は四十代半ばくらいだろうか。  打ちつけた額を手で押さえうずくまっている江森には最初、目もくれなかった。  「正人(まさひと)、そんなところで何やってるの?」  叔母はさも不思議そうに甥っ子へ声をかけた。彼女は自分の失態に気づいていないようだ。ドア越しに衝撃を感じたはずではないのか。  「だ、大丈夫か……?」  憐れに思いたずねると、江森は額に手をやったまま立ち上がった。  大きな身体が左右にふらふらと揺れている。  「おばちゃん、勢いよくドア開けんなって前にも言っただろ……。向こう側に誰かが立ってる可能性も考えてくれって」  怒りよりも呆れが強く含まれた声で淡々と注意する。甥っ子の心など知らぬ存ぜぬといった態度で、叔母は「そういえば……そんな話もしたかしら」などと首をかしげていた。とぼけているのか、本当におぼえていないのかは伊織にも見分けがつかなかった。  「とりあえず、寒いから中に入って話しましょう。話し声がすると思ったら、こんなところでおしゃべりしてるんだもの、びっくりしたわ」  女性の声は徐々に遠ざかっていく。奥の方で、誰かと何かを話しているのが聞こえた。相手の声は叔母のものよりも若かかった。  室内に入る直前、伊織は素早く江森の額を確認した。  うっすらと赤みを帯びていたが、傷にはなっていないようだ。ほっとしていると、彼の声に「入ろう」と促された。  部屋の中は暖かかった。氷点下まで気温が下がることも珍しくないこの地域では、何処の家に行っても冬場は暖房が利いている。学校も例外ではなく、小・中・高と校内には必ず暖房器具が設置されていた。教室の中に一つしかないストーブの周りに集まる生徒たちを、伊織は少し離れた場所からよく眺めていた。  通されたリビングに一人の女の子がいた。テレビを見ていた彼女は「俺のいとこ」と江森に紹介されると、あわてて立ち上がりあいさつをしてきた。  「こ、こんばんはっ。えっと、初めまして。柿沼美郷(みさと)です。中三です。みさとは美しいに、故郷の郷って書きます」  「初めまして。佐倉伊織です。さくらは、佐藤の佐に……えっと」  「漢字を教え合ってどうすんだよ。それより早く飯、食おうぜ」  「、こんなイケメンと何処で知り合ったの?! もっと早く紹介してよねっ」  さっさと食卓テーブルの方へ向かう江森の腕をいとこが揺さぶって問いかける。元気な女の子だなという印象を伊織は抱いた。  大きなテーブルの上には、既に料理が用意されていた。クリスマスイブなためか、洋食が中心だ。この手のイベントでは定番のフライドチキンもある。どの料理も、四人で食べても余りそうなほどたくさん盛りつけられていた。体育会系の江森が食欲旺盛なことは知っていたが、同じくいとこも叔母もよく食べる人たちなのかもしれない。  「荷物はその辺に置いて、佐倉くんも座ってよ。料理はまだまだあるから、遠慮なく食べてね」  「ありがとうございます。いただきます」  「私っ、佐倉さんの隣りがいい!」  「だめだ。お前はいつも通り俺の向かいだ」  ずるい! と憤慨されても、江森は伊織の隣りの席を死守した。美郷に言い返しながら、テーブルの下でしきりに伊織の手を触っていた。女性陣には見えないはずだと言い聞かせ、赤面してしまいそうになる頬と高鳴りかけた鼓動をなんとか落ち着かせる。  「でも本当に、佐倉くんは美人さんね。正人より何倍も」  「どうせ俺はブサイクだよ。――いただきます」  不服そうにあいさつをし、江森が箸を手にする。箸先は、フライドチキンへ真っ先に伸ばされた。  「ちょっと、一気に二個も三個も取らないでよ! 美郷たちが食べる分、なくなっちゃうでしょ」  「早いもん勝ちだろ、こういうのはさ」  「肉もいいけど、ちゃんと野菜も食べなさいよー? 今日は正人が苦手なトマトもソースとして使ってみました。腕によりをかけて作ったんだから、残さず食べてね」  「うげっ。なんでイブなのに俺の嫌いなもの出すわけ?」  「甥っ子の好き嫌いを直してあげるのも叔母としての務めだもの。あっ、佐倉くんは苦手なものがあったら無理せずに残してね」  「差別だ」  お客様なんだから当然でしょ、と叔母は涼しい顔でサーモンのマリネを頬張る。咀嚼しながら甥っ子に睨まれても、素知らぬ顔だ。  一部始終を、呆気に取られながら伊織は見ていた。  学校や外では常に笑顔を見せ冗談を言うことの多い江森が、家の中では意外にも大人しくしている。会話を持ちかけるのは女性たちの方からで、彼は料理に手をつけながらそれを聞いているか億劫そうに対応するかのどちらかだった。  「ん、食べないのか?」  問いかけられ、箸を持つことすらしていなかった自分に気がつく。ううんと首を振って、伊織はグラタンパイを一口かじった。  美味しい。こんな感想を抱いたのは、久し振りだった。  他のどの料理を食べても、感想は変わらなかった。美味しかった。  食事の時間は、伊織にとっていつも味気のないものだった。学校でも、自宅でも、ただ腹が減ったから満たすという意味で事務的に食べていた。味覚が何処かへ行ってしまったのではないかと思えるほどに、味を感じなかった。何を食べても吐き出すほど不味いわけではないものの、何を食べても味はたいして変わらないように思えた。身体が食べ物を欲しなければ望んで食事をする気にはなれないだろう。それほどに、食事は楽しみとはほど遠いものだった。  テーブルに並べられた色彩豊かな料理が歪んだ。  人前で泣くのは嫌だった。けれど、溢れ出すものを止められなかった。  「佐倉さん……?! ど、どうしたのっ?」  「あら、何か口に合わなかったかしら」  向かいから心配する声がかけられた。首を横に振る。しゃくりあげてしまい、まともに言葉を使うことができなかった。  「佐倉?」  彼に名を呼ばれると、罪悪感が込み上げてきた。  楽しいものであるべき時間を、自分が壊してはいけない。みんなを安心させなくては。その一心で声を絞り出す。  「美味しい、です」  不甲斐ないほどに、声が震えた。  「美味しいです。とても」  背中に、大きな手の平の温もりを感じていた。

ともだちにシェアしよう!