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第24話 よみがえる悪夢
「……へぇ。案外、ちゃんとした生活してるんだな」
明かりの灯された部屋の中を見まわして、最初に飛び出したのがこんな感想だった。ソファーの上に雑多に放られていた洗濯ものを片づけながら、江森が「案外ってなんだよ」と苦笑している。
彼が住んでいる一室は叔母親子の部屋と同じく1LDKだった。一人で暮らすには充分な広さだ。二人で住んでいる親子の方が窮屈そうに見えたほどである。
江森の下の名前が正人 であること。トマトが苦手であること。彼の叔母といとこがおしゃべり好きで明るい性格だということ。
つい二時間前、新たに知った事柄を思い返す。
賑やかで温かいひと時だった。複数人と会話をしながら食事をしたのは、いつ振りだろう。箸が進んで、普段よりも余計に食べてしまった。料理を作った江森の叔母が嬉しそうに笑っているのを見かけた。
「いつまで玄関先に突っ立ってんだよ。上がってきて、適当に座って」
「……お邪魔します」
隣りの部屋で、初対面の二人を含めた四人で食事をしていた時には平気だったのに、二人きりの空間へ入り込んだ途端、伊織は妙に緊張していた。テレビもつけられておらずあまりにも静かなせいだろうかと思案しながら、江森に促されるまま部屋に上がった。ソファーの隅の方に腰を下ろすと「何か飲む?」と台所の方から声をかけられる。
「酒以外なら、なんでもあるぞ」
「酒が飲みたいって言ったら、どうするの」
「え、未成年なのに飲みたいのか? 佐倉って、意外とワル?」
冗談に決まってるだろと笑い飛ばす。次いで、今は何も飲みたくないと答えた。
冷蔵庫の戸を閉める音が聞こえる。江森は結局、何も持たないままリビングへ戻って来たようだった。
ソファーのひじ掛けの上に置いたカバンを開けて、先ほど二人の会話に上った野球小説を探す。江森に貸して欲しいと頼まれずとも、いずれおすすめするつもりだった。話中に登場する人物の中に、江森とそっくりな性格をした野球少年がいるのだと話したかった。読んでいる最中はついその登場人物に感情移入をしてしまったものだと。
身体がわずかに傾く。隣りに座った男の重みでソファーが沈んだせいだ。
気配を察知した時にはもう遅く、伊織は背後から抱きしめられた。振り返る間も必要もなかった。
半ば、強引な形でキスをされた。動揺も驚愕も、やはり束の間の内に消えてしまった。伊織は体制を直し、真正面から江森の口づけを受け入れた。舌が深く入り込んできて身体がさらに後ろへ倒れていく。腕がカバンを弾いた。重い音を立ててカバンは中身ごと床に落下した。
この部屋で二人きりになった瞬間に感じた緊張の意味が、ようやく分かった。
「あ……やっ、待って、江森」
キスに夢中になり、いつしか完全にソファーへ押し倒された状態になっていると気がつくまで時間がかかった。
「待てって言われても……、俺にそんな余裕があると思う……?」
「ないのは分かる。けど、だめ。ちょっとだけでいいから、待ってくれ」
「無理、もう待てない」
身を起こそうとした伊織を押し戻し、江森は首元に顔をうずめてきた。
首筋に優しく口づけられ甘い声が出そうになるとともに、胸の内にひんやりとしたものが現れ始めた。それは彼の手に着ていたものをはだけさせられ、至るところに熱い唇を落とされる度に冷たさを増していく。
前にもこの感覚を味わったことがある。
とても強くて、抗うこともかなわない感情。
これは恐怖だ。
「嫌だっ……! やめて、触らないで!」
悲鳴にも似た声が静かな一室に響く。伊織がよく知っている声で、伊織が確かに以前思い浮かべたことのある台詞を吐いた。口には出さず、心の中で何度も叫び続けた。誰に届くこともないと知りながら必死に叫んでいた。
まるで、あの時の再現だ。
手は無意識に覆いかぶさる身体を押し退けようともがいた。指先に胸板の硬い感触を感じて、やっと我に返る。
「……えっ?」
疑問に満ちた呟きを漏らしたのは、伊織の方だった。
江森はただ、呆然とした様子で伊織を見つめていた。表情からは、少なからずの衝撃が窺えた。拒絶されたことに対して衝撃を受けたのに違いなかった。それをされた男がどれほど傷つくのか、伊織にはまだ知り得ないことだった。だが、自分が咄嗟に起こした行動がひどい誤解を招いてしまったのだという事実は理解できた。
「ご、ごめん……。違うんだ。今のは、江森に言ったんじゃなくて」
「……は? じゃあ、誰に言ったって言うんだよ」
無表情で江森は問うてきた。
彼が傷ついた瞬間を目にするのは、これで二度目だった。どちらも伊織が傷つけた。一度目は自ら望んで。けれど今回はそうではない。
何か言わなくては。傷つけてしまった侘びか、それとも言いわけか。
そのどちらも、通用するとは思えなかった。
「江森……、ごめんな。本当にごめん」
「いや、謝られても納得できないんだけど」
刺々しい口調に、目を伏せる。謝罪だけで済むはずがなかった。頭では分かっていても、心はまだ弱い自分をかばおうとしていた。これ以上、傷つくことのないようにとずっと守り続けた。自分で自分を守るしか、伊織には方法がなかった。
「……というか、謝るのは俺の方。強引にキスしたりして、悪い。佐倉は、嫌だったんだよな」
「ッ……! 違う、そうじゃないんだ江森」
嫌だったのではない。大好きな人に触れられて、キスをされて、嫌なわけがない。
身体が、喉が勝手に声を張り上げたのだ。あの時の状況とよく似ていたから脳が勘違いを起こし、防衛本能を働かせたのだ。
いくら否定しようとも、肝心の中身がないのでは納得を得られるわけもない。
もういいよ、と低い声で告げ立ち上がりかける江森の手を、伊織は必死の思いでつかんだ。振り払われるのを覚悟ですがりついた。
「違うんだよ。江森に触られるのも、キスをされるのも嫌じゃない。嬉しいよ。いつだって、泣きそうになるほど嬉しい。今のはただ……、前に見た怖い夢を思い出して錯覚しただけで……」
「怖い夢?」
どういうことだと問う声は、少しだけ普段の調子を取り戻していた。伊織はそこに、明るい笑顔を取り戻したかった。
その一心で、重い口を開いた。
観念したせいか、微かな笑みを浮かべることさえできた。
「触るのも触られるのも初めてだなんて最初に言ったけど、そんなの嘘。……俺ね、前に襲われたことがあるんだ。男に」
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