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第25話 過去

 静寂が耳に痛い。  どれくらいの間、黙り込んでいたのだろうか。  「……襲われた……って、どういう、こと」  やっと発せられた言葉は、切れ切れだった。顔を上げて、表情を確認する気など起こらなかった。笑みの浮かぶことが多いその顔には、きっと今、伊織が目にしたことのない感情が現れ出ている。  「言葉通りの意味。分かりやすく言うと、レイプされた」  暗澹(あんたん)たる体験は、口にしてみると案外、平気だった。  誰にも話すことができずにいた過去。それを語る際には、さぞかし取り乱してしまうことだろうと漠然と思っていたが、この程度か。忌々しい記憶を思い起こそうとも、身体はなんともなかった。一時期は、思い出すだけで頭痛がし、夢に見て覚醒しては吐き気がしたというのに。  今なら話せる。いや、今しか話せないと思った。    いつかはこんな時がくるのだろうと、覚悟はしていた。だから話してからどうなろうと、後悔はしない。  一つ息を吐き、伊織は再び口を開いた。  「俺、両親がいないんだ。中学一年生になったばかりの四月に、火災に遭って死んだ。二人はその日、本屋にいた。俺の誕生日プレゼントを選ぶためだったみたいだけど、本当の理由は分からない。とにかく分かってるのは本屋が入ったビルが火事になって、逃げ遅れた二人は助からなかった、ってそれだけ。まだ春と呼ぶには肌寒い夕方、俺はできたばかりの友達と部活動の見学をしてた。色々な部を見てまわってたら、すっかり遅くなった。そろそろ帰ろうかと思ってた時、俺の名前が校内放送で呼ばれた。先生は火事の連絡を受けて真っ先に俺の家へ電話したけど、誰も出なかったから放送で呼びかけたんだ。まだ俺が校内に残っていると思って」  唇を舐める。喉が渇いてきた。部屋の中は寒さのせいでひどく乾燥しているようだ。先ほど、何か飲みものをもらっておけばよかったと後悔する。  駆けつけた火災現場で目の当たりにした光景、火災の原因は電気系統にあったこと。被害者の亡骸はみな身元の判別もつかないほどに損傷していたけれど、つけていた結婚指輪で両親だと分かったこと。それらも話した方がいいのかどうかと迷ったが、伊織は結局、詳細な説明を省いた。  「両親が死んだ後、俺は遠い親戚に引き取られた。顔を見たこともない夫婦で、一人だけ子供がいた。その人たちが今の養父母(りょうしん)。だからさっき行ったあの家は、俺の家じゃなくてあの人たちの家なんだ。住まわせてもらってはいるけど、居心地は最悪。彼らは他の親戚たちが嫌がるから、押しつけられたも同然で俺を引き取ることになった。だから、あの人たちも被害者なんだと思う」  「…………」  何気なく言葉を切る。  江森は何も言わなかった。こんな重い話を聞かされては、さすがにいつもの陽気さも発揮できないかと伊織は心の中で苦笑した。  「顛末(てんまつ)の結果から先に言うと、俺を襲ったのは養父母の一人息子――一応、名前は言わないでおく。そいつはお世辞にも心が綺麗な人間とは言えなかった。俺があの家に引き取られた当時、彼は高校生だった。陰気な性格で、弱い者いじめを楽しんで見物するような奴だった。そんな性格だから彼女もできなくてさ、女の子に交際を迫っては嫌がられて、その度にものにあたったりしてた。親と口論してる光景も何度か見た。当時の家の中は多分、今よりもギスギスしてたと思う。それでも、食事と寝るところがあるだけましだったんだ。……養父母の一人息子から夜な夜な汚い手で全身を触られたとしても」  身体が冷えてきた。隣りに座っている江森に触れて、温まりたかった。指先だけでもいいから、温まりたかった。  話の核心にまで辿り着いた途端、また臆病な心が騒ぎ出す。  これ以上、話すべきではない。話せば嫌われるだけだと何者かが囁いてくる。  一瞬だけ、目をつむる。そして伊織は否定する。  嫌われてもいい。俺は江森のことが好きだから、話す。みじめでも、汚くても、好きな人には自分のすべてを知ってもらいたい。その上で江森から拒絶されたとしても、きっと後悔しない。悲しいだろうけど、俺はそれを受け入れる。  開いた両目の先に、オレンジ色を見た。  ゲームセンターで取った、江森とおそろいの腕時計。プラスチックのケースに入れられたそれが、足元に転がっていた。  部屋に着いて晩飯食ったら、さっそくつけてみようぜ――。  店を出た時、彼は言っていた。伊織は笑ってうなずいた。部屋の中で同じ時計を身につけた腕を見せ合いっこする自分たちの姿を想像していた。待ち望んだ瞬間が一向におとずれそうにないことを、ただ寂しく思った。  「襲われたのは、引き取られて一年後くらいの夏。好きな女の子にフラれて、むしゃくしゃしてたんだろうな。それで、女に相手にされないなら男でもいいやって思ったんだろう。いや、ただの憂さ晴らしだったのかもしれないけど。夜中、俺が寝ている部屋に入ってきて、俺の上に覆いかぶさってまず首を軽く絞めてきた。目が覚めて、びっくりしたから叫ぼうとしたら口を手でふさがれた。『声出したら殺すから』って言われた時は、さすがに怖かった。本当に殺されると思った。命だけは助かったけどね。どんなことをされたかまでは……、さすがに江森が相手でも話すのを躊躇うな。とにかく何をするにも乱暴で好き勝手に振る舞う奴だったから」  「もういい」  話を遮った声が震えていた。  顔を上げようとしたら、抱きしめられた。背中にまわされた腕の力は強かった。先ほど背後から抱きしめられた時よりも、真正面から初めて抱きしめられた時よりも、強かった。  鼻をすする音が聞こえる。  そっと呼びかけると、微かにしゃくり上げる声がした。  「ごめん。俺……、佐倉のこと何にも知らなかった。お前が、そんなつらい目に遭ってたなんて、知らなかったんだ。ごめん」  「なんで……、なんで江森が謝るの。あと、なんで泣いてるの」  「うるさいっ。お前のせいだ馬鹿野郎」  鼻声で言われ、江森の手に髪を撫でられる。それだけで、冷えきっていた身体が体温を取り戻していく。じわりと、視界が滲む。  「やばい。俺まで泣きそう。江森のせいだ」  「むしろ佐倉は泣け。俺のせいでもなんでもいいから」  この期に及んでまで江森は伊織に優しい言葉をかけた。  「俺のこと、軽蔑したりしないの? 汚いって思わないの、人前では言えないようなこともたくさんされたし、させられたんだよ。俺をそんな目に遭わせたクソ野郎とお前を間違えて、突き飛ばしたんだぞ。大好きな奴を大嫌いな奴と見間違えるなんて、どうかしてるって思わないの」  「思わないよ。でも、後悔はしてるかな。佐倉がそんなに怖い思いをしてたなんて知らずに、同じようなことを俺はしようとした。怖くて当然だよ。叫んで逃げるのが当たり前。だから……、怖い思いをさせて、ごめんな」  何処まで優しいのだろうか、この男は。泣きながら伊織は呆れた。そうして確信した。自分のしたことは、間違いではなかったのだと。  話せてよかった。江森を好きになれてよかった。  江森に出逢えて、よかった。  「……ありがとな、江森」  息苦しい喉でそれだけ言うのが精一杯だった。

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