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第26話 江森家の事情

 「俺の家もさ、ぎくしゃくしてた時があるんだ」  呼吸が落ち着いてきた頃、伊織の身を抱いたままで江森がそんなことを言った。もう泣き止んだというのに、赤子をあやすような仕草で伊織の背中をぽんぽんと叩いている。  「母親が外に男作ってさ、俺が物心つく頃には蒸発した。今じゃ何処にいるかも分からない。出て行く前は夫婦喧嘩が絶えなくて、末っ子の俺と兄貴と姉貴はいつも怯えてた。あまりにも頻繁に起こるからその内に慣れるかなって思ってたんだけど、最後まで苦手だったな、あの張り詰めたような空気は。で、母親が出てった後、親父は仕事にしてた農業は続けてたんだけど、酔っぱらう日が多くなった。暴力さえ振るわなかったけど俺たちと、一緒に住んでた祖父母にきつくあたることが増えた。そんな家だったし、居心地はよくなかった。だから高校は地元じゃなくて、こっちの学校に入ろうって決めたんだ」  自分の子供が丸一日帰って来なかったら、親は誰だって――。  きらびやかな街の中で江森が言いかけてやめた一言を思い出す。  彼はあの時、母親のことを思い出したのではないか。親ならば子供のことを心配するのは当たり前、だが例外もある。我が子の幸せを顧みず、自分の幸せにばかり手を伸ばし続けて去って行く親もいる。一握りだとしても、そういう親も存在するのは事実だ。  「小さい時から野球が好きだったから、今の高校を選んだ。飽きっぽくて、何をやっても長続きしない俺が唯一、野球だけは飽きずに続けてたから。野球部に入って、甲子園に行って優勝して、プロになるって本気で思ってた。いや、今も思ってる。実家の家族からは、猛反対されたけどな。なんとか説得して、学費の援助と仕送りだけしてもらうっていう条件だけこじつけて、田舎を飛び出してきた。実家にはそれっきり、帰ってない。電話とメールでたまにやり取りするくらいの関係。通いたい学校の近くに叔母さんが住んでたのはツイてた」  背にまわされた腕が解かれる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を見られまいと、伊織はあわてて顔を服の袖で覆った。さっきまで寒かったのは胸がはだけていたせいもあったのだとそこで気がつく。  「あと、佐倉が同じ高校にいてくれたこともな」  涙の膜が張った目尻は下げられていた。  眼差しは優しく、伊織へまっすぐに注がれていた。やっと、彼らしさが戻ってきた。そのことを伊織は心の底から喜んだ。嬉しいはずなのに、うなずいた瞬間、何故かまた涙がこぼれ落ちそうになった。  「さっきの話だけど……、その、佐倉に手を出した最低野郎は、まだ家にいるのか?」  「ううん。二年前に、遠くの大学へ進学して、それからはほとんど帰って来てない。あいつが家を出て行くって知った時は、ほっとしたよ」  「うん、それ聞いて俺も今ほっとした。……よかった。佐倉がもう、ひどい目に遭ってなくて」  目の前で安堵されると、途端に申し訳なく思えてきた。  「……ごめん。重いし暗い話を突然、聞かせるようなことして……」  「なんで謝んの? 俺は知れてよかったよ。重くて暗い話でも、それを話すことで少しでもお前が楽になるなら、俺はいつだって聞くから」  「江森って……、どんだけいい奴なの……」  それは褒めてるの、それとも嫌味? とたずねられ、もちろん前者だと答える。  「俺も、江森に話せてよかった。聞いてくれて、ありがとう」  彼にも複雑な事情があったことを知り、悩みを抱えているのは誰しも同じなのかもしれないと思うことができた。自分はもう、独りきりではないのだと。そばに江森がいてくれるだけで、こんなにも心強い。  言葉では足りないくらいの感謝を、伊織はキスをすることで江森に伝えた。  開いた目に映った表情は、あまりにもあっけらかんとしていた。「何、その顔」と苦笑すると、江森の頬がうっすらと赤くなった。  「だ、だって、佐倉が自分からキスしてくるなんて……」  「意外だった? 俺もだよ。自分で自分にびっくりしてる。お前と出逢うまで、こんなに積極的になったことはなかったのに」  人を好きになると、知らぬ間に自分自身もよい方へ変わり始めるものなのだと初めて知った。江森と出逢い、彼を好きにならなければ知らずに一生を終えたかもしれない。ずいぶん大げさな見解だなと、伊織は自嘲した。  頬に温かい感触。江森はじれったそうに、それでも優しい手つきで触れてきた。  「……あの、さ。俺に触られるの、怖い?」  視線はこちらへは向けられていなかった。  「怖くないよ」  「じゃあ……、男とセックスするのは……?」  躊躇いがちに問われ、伊織は口をつぐんだ。考え込む素振りを見せながら、江森の様子を観察していた。彼は返答を待つ間中、そわそわと落ち着きなく身体を揺らしていた。なんだかトイレを我慢する子供を見ているようで、可笑しくなって笑いたいのをこらえた。一応、江森は真面目にしているつもりなのだ。今ここで笑い声を上げれば、きっと憤慨するに違いない。  子供っぽく怒る江森を見るのも、悪くはないかもしれないけれど。  「……分からない。でも多分、好きな人が相手なら大丈夫だと思う」  「相手が俺なら……ってこと?」  「うん。俺は、江森に触られるのも触るのも、平気だから」  ソファーの上で、江森はこちらを向き直った。  「……なら、続き……してもいい?」  神妙な声に、今度はたまらず笑みをこぼす。案の定、江森は「何、笑ってんだよ」と不服そうにした。何でもないと伊織が弁解しても、まだ探りを入れるような目を向けてきた。  「いいよ。俺も、したい。江森と」  「うわぁ……、よくもそんな恥ずかしいことを人前で言えるな、お前」  「は? そんなに恥ずかしいか……?」  向こうが動かないのならこちらから仕かけよう。  いつまでも文句を言い続けそうな江森を見ながら考える。なんだか武将にでもなった気分だった。  首の後ろに腕をまわし、自分よりひとまわりは大きな身体に抱きつく。  唇を重ねてやると、すぐに先方もその気になったようだ。伊織の身体を抱き寄せ、吸いつくように舌を絡ませてくる。  「他の部屋まで聞こえないかな……」  「叫んだりしなければ大丈夫だろ。ちなみに、下は空き部屋」  「そこまでは聞いてな、い……」  再び首筋に口づけを落とされ、声が艶を帯びた。唇は鎖骨、胸へと少しずつ下へ下がってゆく。ぴんと張り詰めた突起を舌で舐められた時、伊織は大きく身体を震わせた。それでも声を上げるのは何とかこらえた。  口づけているだけで身体が火照ってきたのか、江森は着ていた制服を脱ぎ捨てた。己とは比べものにならないほどに鍛えられた上半身に、伊織はしばし見惚れた。  「トイレでたまに触りっこするだけじゃ、物足りない?」  「そりゃあ、物足りないに決まってる。でもソファーの上じゃ狭いな。少し寒いけど、続きはベッドでしようか」  億劫そうに言い、江森は伊織の腰に手をかけた。抱き上げようとしているらしい。  伊織は止めたが、却下された。細身とはいえ、何も軽いわけではない。苦労して伊織を抱き上げた末、さすがに重いなと口にしながら江森は笑った。ふらふらとよろめきながら歩き、隣室のベッドの上に倒れ込むようにして男一人を抱いての移動をなんとか成功させた。  脇腹のあたりに、シーツのひんやりとした感触がある。  「寒くない? こっちの部屋、暖房器具がないんだよな」  「寒いけど……、これからあったかくなるだろ」  「じゃあ、むしろ暑いぐらいにしてやる。その代わり怖いって思ったら、遠慮せずに言って。いつでも中断するから」  「……さっきは、待てないとか言ってたくせに?」  「それはそれ、これはこれ、だろ」  ベッドの上、抱き合った状態でキスが再開される。今度は恐怖を感じなかった。  いつか冷たい浴室で見た好きな男に抱かれる夢は、現実のものになって伊織を満たした。

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