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第27話 二度寝のクリスマス

 微かに、陽の光を感じた。  枕もとを探ると、何か硬いものが指先に当たった。手に取ってみると腕時計だった。デジタルの数字が六時を示している。オレンジ色は、薄暗い部屋の中では青みがかって見えた。  クリスマスの朝は一段と冷え込んでいた。  寒さに耐えかね、伊織は時計を元の位置に置くと腕を掛け布団の中へ引っ込めた。  二人分の体温を吸収した布団の中は、とても温かい。頭まで潜り込むと、ほんのりと好きな人の香りがした。  そろそろと目元を覗かせ、右側の様子を窺う。  すぐ傍に大きな背中が見えた。穏やかな寝息とともに、ゆっくりと肩が上下している。まだ眠っているようだ。こんなにも近くで、江森と一夜を過ごした。同じベッドで、同じくらいのタイミングで眠りについた。朝になっても信じがたい事実に変わりはなかった。  シングルサイズのベッドは、男二人で使うには狭すぎた。ソファーで眠るからいいと伊織は言ったのだが、江森は頑として一緒に寝ると聞かなかった。昨晩はあんなに大人っぽく抱いてきたくせに、やっぱり何処か子供っぽい。そんな感想を抱くと同時に、目の前の背中が何より愛おしく思えてきた。  広い背中に顔を寄せてみる。  衣服越しに、せっけんの香りを嗅いだ。自分も同じ香りを身にまとっているのだと思うと嬉しくて口元が勝手に緩む。  小一時間をベッドの上で過ごした後、二人は風呂に入った。浴槽に湯が溜まるまではシャワーの湯を互いにかけ合った。湯につかり、身体を洗いながら色々なことを話した。その日、計画性のないデートで行った場所について話に花を咲かせていると、同時のタイミングでおそろいの腕時計の存在を思い出した。入浴を済ませるなり、江森はさっそく時計を開封し腕に着けた。半裸のままで時刻の設定に苦戦し始める彼には降参した。  風邪をひいてはいないだろうか。  肩まで布団を掛け直してやりながら伊織は思った。数日間は部活も休みだが、長くは続かないだろう。冬場でもうちの野球部は練習を怠らないからなと、苦笑混じりに江森が言っていたのをおぼえている。  伊織はたくましい背中にすり寄ると、片腕をまわして抱きついた。自分の体温を分けようとしたつもりが、江森の身体の方がよっぽど熱を持っていた。  数分間、そのまま動かないでいると、くぐもった声とともに江森が身じろぎした。  「……ん。伊織……?」  下の名前で呼ばれた。  昨夜の内に何度も呼ばれていたはずが慣れず、こそばゆさを感じた。  揺蕩(たゆた)う身体に走る甘い痺れを堪能している最中、親し気な口調で最初に呼ばれた時にはまた涙が出た。「佐倉って、意外と泣き虫だな」と江森に苦笑され、筋の通った鼻を思いきりつねってやった。  「今、何時……? 朝?」  「朝だよ。まだ六時だけど」  問うてきた声はあまりにも眠そうで、寝足りないと訴えていた。  狭いベッドの上で器用に寝返りを打ち、江森は伊織がいる方を向いた。  「肩、出して寝てたけど、寒くない?」  「ん、平気。伊織は?」  「寒い、ちょっとだけ」  正直に答えると、彼の右腕に抱き寄せられた。息苦しさを感じるほど強い力ではなかったが、伊織はうっと声を詰まらせた。  「こうやって、抱けるものがあるともっとあったかいな。抱き心地もいいし」  「……人を抱き枕かなんかみたいに言うなよ」  冷気にさらされて冷えていた顔の体温が上昇してゆく。  ぶっきらぼうな言い方とは裏腹に、手は自然と江森の背中へまわされていた。この状態がしばらく続いたとしても悪くはない。むしろ、永遠に続いて欲しかった。このまま息絶えたとしても、きっと後悔はしないだろう。  「伊織、今日バイトは?」  「シフトは十時から。うちの店、クリスマスは何故か混むんだよな。客の多さに去年、びっくりさせられた」  「あの喫茶店、雰囲気いいもんな。クリスマスデートで立ち寄るにはぴったりかも」  日頃より枚数の多い皿洗いをこなしながら目にした光景を思い返す。  江森の言う通り、カップルでおとずれる客が圧倒的に多かった。幸せそうに微笑み合う男女を眺めながら、やはり何処か別の世界を覗いているような気持ちになった。  同年代くらいの女の子と仲睦まじく会話をする自分の姿を思い描いてみても、相手の顔はいつも不明瞭で具体的ではなかった。クラスの女子から話しかけられた時など面倒に思うばかりで、相手の顔をおぼえることもましてや淡い恋心を抱くこともなかった。周りの男子生徒と比べれば、異性への興味という概念が欠けていると言ってもいいほどに、伊織の中では明らかに関心の薄いものだった。両親の死でそもそも他人自体へ心を閉ざしていた彼には、それを疑問に思う機会すらなかった。  異性とつき合う光景すら思い描けなかったというのに、まさか同性とつき合うことになるとは。両親を亡くす以前の自分自身であっても、想像はつくまい。  「十時なら多少はゆっくりできるな。なあ、あと一時間だけ寝ない?」  後ろ髪を江森の手にくしゃくしゃと撫でられながら伊織は唸った。  あともう少しと二度寝した時に限って寝坊をする。それでバイトに遅刻しかけた経験が何度かあった。  だが、もう少しこのまま幸せに浸っていたいという気持ちを無視できなかった。  「いいけど……、目覚まし時計とか持ってる? 寝過ごしたくない」  「それなら、俺のスマホのアラームを設定すれば、」  低いバイブ音がした。床のあたりからだ。  江森は重そうに身を起こすと、ベッド付近の床に放置していたスマホを拾い上げた。画面の光が眩しく、伊織は思わず顔をしかめた。  「野球部の仲間からメール、というか連絡網。部活、明日から再開だって。ボヤ騒ぎの犯人は判明したらしい」  「誰だったの? 犯人」  「うちの学校の教師」  予想外の人物に驚く。    メールに書いている情報では、その教師は昼休み中に学校の裏手に位置する階段の踊り場でタバコを吸っていた。新しい一本に火を点ける際、ライターの火が大きくなっていたことを忘れ、火が前髪を焦がしそうになった。あわてている最中、先端に火が灯されたままのタバコを開け放っていた窓から誤って外へ投げてしまった。本人はタバコに火が点いていたことには気づかず、前髪の様子を確認するためにその場を離れた。ボヤ騒ぎが起きて焦った彼は、しばらく迷った末に昨夜の内に校長へ事情を話したらしい。  この事実はすぐに学校の教師全員へ伝えられ、江森のスマホへは野球部顧問からの連絡網としてまわってきたのだという。  「なんだ。てっきり放火か何かかと思ったら、原因はタバコの火だったのか」  校内で喫煙をし、さらには騒ぎまで起こした張本人には相応の罰が課せられるだろう。他人事にも思えたが、火の扱いのずさんさを伊織は許すことができなかった。  「あー……、部活のない天国も今日で終わりかぁ」  つまらなさそうにスマホを放り、江森は布団の中へ戻ってきた。  「まあでも、今日からじゃなくてよかった。おかげで今日も伊織のエプロン姿を見に行くことができる」  「え、今日も店に居座るつもり」  「だめ? だって伊織が働いてるとこ見るの、楽しいんだもん」  「俺は嫌だよ。おまえが、」  「正人、な」  名前で呼ばなかったことをわざわざ指摘してきた江森を睨む。  「ま、正人がいると、店の人に気を遣わせそうだし。あと気が散る」  「なんでだよ。昨日は静かにしてたじゃん」  「視線を感じるんだよ。何をしてても、ずっと俺ばかり見てただろ」  「伊織のエプロン姿があまりにも似合ってたから、ついな」  嘘つけ、と伊織はごろりと寝返りを打った。距離を取ったつもりが、すぐに後ろから手が伸びてきて抱き枕にされた。  「じゃあ、昨日おすすめしてくれた本、貸してよ。バイトが終わるまでの間、それ読んで待ってるから」  「……大人しくしててくれるなら、別にいいけど」  「決まりだな」  耳元で囁かれた上に先の方へキスをされ、伊織は小さく声を上げた。  恥ずかしいのを隠すために無言を貫いていると、背後から微かな笑い声が聞こえた。もう一度そちらを向いて仕返ししてやろうかとも思ったが、応酬になってきりがなくなる気がしたのでやめておいた。  「あと一時間だけ、おやすみ」  「……うん。あ。アラーム、セットした?」  「あ、忘れてた」  背後で再び身を起こす気配がする。  今度は伊織が微笑する番だった。

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