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第28話 来たる夏

 クリスマスに一夜を過ごしてから、伊織は時々、江森の部屋をおとずれるようになった。大みそかの夜にも泊まり、翌朝には一緒に初詣へ行った。大きな神社だったせいか人でごった返していた。あまりの混みように、神社を後にした時には元旦の初詣なんてもうこりごりだと二人で嘆息した。  期末試験に頭を悩ませ、卒業式を終えても雪はまだ路上に残っていた。一か月が経過する頃には溶けてなくなり、やっと春らしくなって桜が咲き始めると大型連休へ突入した。  連休中、野球部の練習に飽きたと言う江森と街へ行ってデートをした。  クリスマスの突発的なものとは違い、今度は事前にちゃんと計画を立てた。行き先などは、ほとんど丸投げされたも同然だったが、計画を練っているだけでも伊織の心は躍っていた。真っ先に、バッティングセンターはやっぱり外せないなという考えに行き着いた。何処へ行ったとしても、江森と一緒ならばきっと楽しめるという予感もしていた。  日本列島に雨季がおとずれ、その様子を江森の部屋のテレビで眺めてあれこれ話している内に、また夏がやって来た。  江森が所属する野球部は、甲子園大会の予選を順調に勝ち進んだ。  伊織は一度だけ、地方大会の様子を見に出かけた。まだ七月の初めだというのに日差しが強く、ひどく暑い日だった。日傘を差している女性陣がうらやましく思えた。  三年生に進級しても、江森は四番の座を守っていた。外野のポジションで、敵チームの攻撃中に大きな声でピッチャーを鼓舞する姿を、伊織は遠くの観覧席から見ていた。伊織が見に来ていることを知っているせいか、調子に乗って叫んでいたところを隣りのポジションを守っていた仲間に「うるせぇぞ」と怒られていた。観覧席でも軽い失笑が湧き起こり、伊織は何故だか恥ずかしくなってうつむいた。  自分が来たことで却って(りき)ませてしまうのではないかと危惧したが、その日の江森はバッティングが好調で大いに活躍した。後に野球部は、二年連続で甲子園大会出場という偉業を成すことになる。  「あーあ。甲子園がもっと近ければなぁ」  兵庫へ発つ前日、バイトを夕方で終わらせて部屋へ遊びに来ていた伊織は、江森の不服気な声を聞いた。夏休みの宿題をしている途中で言われたものだから、思わず指先に力が入ってシャープペンシルの芯を折ってしまった。バイト以外には特に予定のない伊織よりも先に課題を終わらせなければいけないはずの江森の問題集は、未だ空欄や白紙が多かった。  「せめて東北あたりにあれば、伊織にも見に来てもらうのに」  「会場が東北にあったとしても、俺は見には行かなかったと思うけど」  「なんでだよっ。恋人が大舞台で活躍するんだぞ?! 普通は生で見たいって思うだろ」  「試合する前から活躍する気なんだ」  気が早い恋人に苦笑しながら、伊織は新しい芯をペンの中へ入れた。  「当たり前だろ。四番の俺が絶対に優勝へ導いてやるんだから」  「頼もしいな、江森は」  「ま、さ、ひ、と」  「はいはい」  二人きりでいる時だけは、下の名前で呼び合う。クリスマスの夜に二人で決めた約束だった。名字で呼び合うことにあまりにも慣れていたせいか、伊織はしばしばその約束を忘れた。一方で、規則など平気で破りそうな江森は抜かりなくしっかりと実行している。彼は意外にも几帳面なところがあるようだ。  初めて下の名前を呼ばれてから、もう八か月近く経つ。  当時の嬉しさといえば言葉で言い表すこともできないほどだったが、何か月経とうともそれは変わらなかった。伊織、と彼から呼びかけられる度につい、にやけてしまいそうになる。  好きな人から名前を呼ばれるだけで、どんなに難しいことでもこなせるような気さえしてくるのだから、恋愛の力は絶大だ。  「俺は正人の活躍をテレビで見てるよ。バイト中も、テレビのチャンネルをなるべく野球中継に固定してもらえるように頼んでみる」  「休みの日は? 伊織の家、あまり好き勝手に行動できないんだろ?」  「昼間なら、大抵は家に誰もいないから大丈夫だよ」  「……この部屋の鍵、置いていこうか」  思ってもみない提案に、伊織は問題集から顔を上げた。  「そんなことして、大丈夫なの……?」  「平気だろ。何かあれば叔母さんに言ってくれればいいし。何度か晩飯食いに行ってるから、伊織ももう余計な気兼ねしないだろ」  柿沼親子とは、すっかり顔馴染みになっていた。二人には江森との関係を「親友同士」で通している。ところ構わず隙あらば伊織と手を繋ごうとする江森も、さすがに叔母といとこへ事実をそのまま伝えるような真似はしなかった。己の世間体を気にして、というよりは伊織を気にかけての判断だろう。  「というかさ、いっそのことここに一緒に住まねぇ?」  ペンを机の上に投げ出してソファーに寄りかかっていた江森が言った。  不意を突かれた伊織は、また手に力を込めてしまった。パキッと、あっけない音が手元から聞こえ、うんざりする。  「理想ばっかり言うなよ……。時々泊まりに来てる今だって、養父母から怪しまれてる気がするのに、何日も連続して家に帰らなかったらなんて言われるか」  「だって、向こうは伊織がいなくても構わないわけだろ。ならいいじゃん」  「近所の目が気になるんだってさ。一応は未成年だから、何日も見かけられなかったら周りから変に思われるだろうって」  「ったく。なんでそんな奴らが伊織の身内なんだか」  江森は顔をしかめ、剣呑な声を出す。仰け反り、頭の下で両腕を組んだ。  そのままうたた寝でも始めてしまいそうだ。そんな話はいいから、さっさと宿題を終わらせろと促すと、渋々ペンを手に取った。  「えも……、正人、そこ間違えてる」  「くっそー、こんなに苦戦するなら最初の内に全部終わらせときゃよかった!」  文句を言いながらも、江森は宿題に取り掛かった。終盤ではもうやりたくないと駄々をこね、伊織は仕方なしに自分の書いた内容をそっくり写させてやった。その代わり、間違えていたとしても共倒れだからなと忠告は与えておいた。伊織と同じ箇所を間違えるのならむしろ嬉しいと言われた時には、こんな奴が甲子園に四番で出場していいものかと頭を抱えた。  呆れ返る半面、江森は必ず試合で活躍するのだろうと信じて疑わない自分がいた。  夏空の下、彼が白球を高々と打ち返す光景が容易くまぶたの裏に浮かぶ。いつかバッティングセンターで見せてくれたホームランは、伊織の脳裏に深々と刻まれていた。  「正人が甲子園でホームラン打つとこ、見たい」  宿題を終え、くつろいだ雰囲気の中、そんな願望が何気なく口をついて出た。  ぐったりとソファーに突っ伏していた江森が頭を持ち上げる気配を感じた。飼い主の帰りを察知して身を起こす犬のようで、微笑ましい。  「簡単じゃないって分かってる。でも俺、テレビの前で待ってるよ。その瞬間を、ずっと待ってる」  「伊織……」  「優勝して来いなんて言わないけどさ、精一杯、楽しんで帰って来い」  あと、頑張って。  つけ足した直後、抱きすくめられた。妙に力が強く、痛いよと言いながら伊織は身じろぎした。  「頑張る、けど……。しんどい」  「何が?」  「何日も、お前と逢えないの」  きゅんと、胸が切ない音を立ててうずいた。  伊織も同じ気持ちだった。江森が夢に向かって着実に歩めていることは嬉しかったが、自分は近くではなく遠くからそれを見守らなければいけない。  甲子園がもっと近ければ。  ついさっきまでは笑い飛ばせそうだった江森の言葉を、伊織は心の中で復唱し本当にそうだったらよかったのにと思った。  「何、泣きごとみたいなこと言ってんの。逢えはしないけどメールと電話があるだろ。空いてる時間さえあればそれでやり取りできるんだからさ」  「……うん。そうだな」  寂しい気持ちを押し隠し、伊織は笑顔を浮かべた。  自分まで本音を言ってしまえば、江森が試合へ集中できなくなってしまう気がした。ずっと夢に向かって努力を重ねてきたのだ。ここで立ち止まって欲しくない。  「寝る前に毎日、電話してもいい?」  「子供かよ。……いいけどさ、別に」  「朝起きた時にも電話していい?」  「嫌だ」  「伊織って、時々つれないよな。まあ、そこが可愛いんだけど」  「うるさい」  笑いながら、江森がじゃれついてくる。つい先ほどまで見せていた憂いの感情は、とうに跡形もなくなっていた。恋人からの愛情表現に素っ気のない態度で対応しながら、伊織はほっと胸を撫で下ろしていた。  じゃれ合いは、やがて熱を帯びたものに変化していった。  「何日も逢えないんだから、ちゃんと充電してかないとな。欲を言えば、モバイルバッテリーも欲しいところ」  「お前はスマホか」  やっと冗談と本音の区別がつくようになってきた。  笑っているところへ唇を重ねられ、「急すぎ」と不満を漏らす。けれど身体は素直に江森の舌を口内へ受け入れた。じわじわと、全身が火照り始める。力の抜けた指で服の袖を引っ張ると、手を繋がれた。指先までしっかり絡ませてあるのを視認した途端、体温はさらに上がった。  「や、そこ、やだってば」  シャツをめくり上げられ、硬くなった先端を口に含まれると、伊織は抗議した。毎回のように言っているのに、意見が受け入れられる気配は見られない。  「じゃあ、こっちならいいの……?」  江森はいたずらっぽく笑い、今度は下半身に触れてきた。  「ん……、いいとは言ってな、い」  「触って欲しいって、顔に出てるぞ。分かりやすいなぁ、伊織は」  「江森に、……正人に言われたくない」  「どういうこと、それは」  また深く口づけられ、伊織の身体は床に倒された。  クリスマスイブの晩、急に押し倒された時に感じた恐怖は、回数を重ねるごとにつれて感じなくなっていった。江森は常に伊織のことを優しく扱った。その丁寧さは、彼にはこんな一面もあったのかと伊織を驚かせた。口づける度、身体を重ねる度、大事にされていると感じた。他人から、実の両親からですらここまで大切にされたことはなかった。これが愛というものなのかと、伊織は思い知った。  こんな俺でも、誰かに愛してもらえるんだ。  江森と過ごす時間はいつだって幸せで、温かかった。時には、これ以上は何も望まないとさえ思えるほどに。  しかし、急に不安になることもあった。  もしも江森が遠くへ行ってしまったら。また独りぼっちにされてしまったら、どうしたらいいのだろう。毎日が幸せな分、そんな余計な気がかりが伊織の後をついてまわった。  江森に打ち明ければ、また暗いことばかり考えてと笑って前を向かせてくれるだろうか。  「……あっ、ん。まさひと……っ」  「しながら伊織に名前呼ばれんの、たまんない……」  束の間、芽生えた不安は身を貫く甘美な痺れの前に呆気なく消えてゆく。  江森は伊織を手招いて、膝の上に座らせた。腰に手がまわされる。  「伊織。俺、頑張るから」  繋いだ身体の熱にうっとりと吐息をこぼしていると、江森が言った。優しさの中に強い決意のようなものが含まれた声だった。  こちらを見上げる人懐っこい瞳が、細められる。  「今までやってきたこと、ぜんぶ出しきってくる。お前が見ててくれてるんだって思えば、きっとホームランも打てる。だから見ててよ。この場所で」  「……うん。ちゃんと見てるよ。あと、応援してる」  笑みが濃くなる。  額に口づけてやると、お返しとばかりに首のつけ根を噛まれた。  会えない日数分、二人は互いの名前を呼び合い互いの体温を堪能した。

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