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第29話 テレビの中の甲子園

 セミの鳴き声がやかましい。  八月。この日の空は快晴だった。遮るもの一つないため、強い日差しが加減も知らずに地上を照りつけてくる。遠くのアスファルトの上で揺れる陽炎(かげろう)を見ながら、帽子をかぶってくるべきだったかと伊織は後悔した。  暑さに息を弾ませて、階段を上りかける。  と。途中でふいに立ち止まり、伊織は下に引き返した。足は階段の近くに備えつけられている集合ポストへまっすぐに向かう。  江森が住んでいる角部屋のポストを開け、中を探る。何もない。  「あいつ鍵、置いていくって言ったのに……、ん?」  何気なく、ポストの上部、陰になっていて外からは見えない部分へ触れてみると、指先に冷たいものが当たった。下へ引っ張ってみれば、べりっという粘着質な音とともにそれは外れた。鍵はテープで張りつけてあったようだ。  「……防犯の意識は、少なからずあるみたいだな」  鍵を手に、再び階段を上がる。江森の部屋の前で立ち止まり、入手したばかりの鍵を差し込んでみると、ドアが開いた。  静まり返った部屋の中へ入り、中から鍵をかける。  江森の叔母かいとこが合鍵で部屋に入ってくることがないよう祈りながら、伊織は室内へ上がってテレビをつけた。チューナーを介さなければ使えないような、古いテレビだ。叔母が以前、使っていたものをもらい受けたのだと江森が話していた。  リモコンを操作し、高校野球の中継を放送しているチャンネルに切り替える。  試合は、既に八回の表まで進んでいた。バイト先で見た時にはまだ四回の裏だった。その時は江森たちの野球部は勝っていた。  四点あった点差は、ここに来るまでの間に縮められていた。  相手チームとの差はわずか一点しかない。  テレビの中で、相手チームの攻撃が続いている。準々決勝の一日目、第三試合。江森たちは夢の大舞台をここまで上り詰めた。学校側はこれを快挙と言って褒め称えるだろう。ただでさえ地元で有名な野球の強豪校なのに、さらに評判を上げるに違いない。  伊織にはどうでもいいことだった。  彼の目は、画面に映っていない外野を一心に見つめていた。  地方大会の様子を思い出す。夏の熱気と、微かに香る土の匂い。時折、あたりに響き渡る清々しい打撃音。  見えなくても、想像する。  外野で打球が飛んでくるのを待っている江森の姿を。どんなに鋭い球でも取り逃がさない。この場所は必ず俺が守り抜く。目に見えないし触ることのできない江森の内心にまで伊織は入り込もうとした。  相手チームの打った球は勢いなく飛び、投手のグローブに収まった。ピッチャーフライと言うのだと、前に読んだ小説で知った。  八回の裏。江森たちのチームの攻撃が始まった。  野球部の恋人に、伊織は野球に関する知識を教わった。用語はノートに書いておぼえた。おかげで一つの試合を観戦するには充分な知識を得られた。去年の今頃は、野球中継を見ても何一つまともに理解できなかっただろう。  たった一年で、伊織の世界は大きく変わった。  江森が変えてくれた。スポーツをして汗をかく楽しみも、恋の苦しさも、誰かを愛おしく思う気持ちも、ぜんぶ彼が伊織に与えてくれたものだ。  数字の一を背中に貼りつけた選手がバッターボックスに立つ。  頼む。江森まで繋いでくれ。  心の中で祈りながら伊織は食い入るように画面を見つめた。一人目のバッターは、あえなくアウトになった。二人目はセンター前ヒットを打って出塁した。ダブルプレーにさえならなければ、と思っていた矢先、危惧した通りの結果になった。  あっという間に八回が終わった。  九回の表。相手の攻撃になった途端、連続してヒットを打たれた。  野球は時と場合によって、展開の速さが異なる。三回戦まではひどく進みが遅かったのに、準々決勝は瞬きをする間にも何かが起こりそうなほど展開が速かった。  一点リードしているものの、この状況は江森たちのチームにとっては危機的だった。  ワンアウト、二・三塁。一本ホームランを打たれれば、逆転される上にたちまち点差が開く。危惧していたところへ、打球音。ツーベースヒットを打たれた。二人のランナーが返ってくる。逆転された。  九回まで投げ続けたピッチャーはこれですっかり調子を崩してしまい、続け様に二つもヒットを打たれた。その都度、相手チームに一点が加算される。  三つのアウトを取ってベンチへ帰っていく時、ピッチャーは肩を震わせて泣いていた。なぐさめる選手たちの中に、江森の笑顔を見つけた。彼だってショックを受けているに違いない。けれども、表情にはそれを微塵も現すことなく、打席に立つ準備をしながら力強く仲間を励ましていた。  いたたまれなくなり、伊織は刹那、画面から視線をそらした。  九回の裏。最後の攻撃。江森に打順がまわってくる。  三点差。現状は厳しい。  だが江森なら、こんな時でもきっとあきらめたりしない。  むしろ使命感に燃えているかもしれない。彼ならばこの状況を打破してくれる。部の全員を明るい光の下に導いてくれる。伊織にしてくれたように。  正人。  精悍な顔つきでバットを構える四番バッターの名を呼ぶ。  信じてるよ、お前を。  初球だった。この試合で初めて聞く、鋭い打球音。高い、高いと、実況者がくどいくらい口にしている。  白いボールは、青い空へ吸い込まれるように消えていった。  風を感じた。テレビを通して聞こえてくる歓声が、近い。  フェンスが手の平に食い込む感触。その向こうで江森が悠々とすべての塁をまわってホームへ戻ってくるところを見た。何処か惚けたような顔をして、喜びを爆発させているベンチの仲間とハイタッチする様を、目の前で見た。  伊織はその時、確かに甲子園球場にいた。  「すごい」  呟いた途端、騒々しいくらいに聞こえていた音は小さくなり、通常のテレビの音量へ戻った。次のバッターに備えて、マウンド上でピッチャーとキャッチャーが話し合っている場面がテレビ画面に映し出されている。  「やっぱ、すごいよ。お前は」  一人きりの室内。今はテレビの向こう側にいる部屋の主を思った。  あと二点の差は縮まらずに、サイレンが鳴った。  他の部員が球場の土を泣きながらかき集めている中、江森はただ地面に両手をついて肩を震わせていた。泣き声は聞こえなかった。彼は声を上げずに、その場にいる誰よりも泣いていた。  鼻をすする音が静まり返った室内に響いた。  泣き虫だな、伊織は。    笑いながら茶化す声が聞こえた気がした。

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