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第30話 居候と元高校球児
『ごめん。負けた』
電話口で言われた第一声は、実にシンプルだった。声の調子は沈んでいた。いくら明るい性格の持ち主であっても、夢破れた瞬間まで笑っていられるほどお気楽でもないのだろう。
『優勝、できなかった』
「うん。知ってるよ。でも、最後にすごいの一発打っただろ」
かっこよかったよ。称賛の言葉に対して、消え入りそうなほど小さく『……うん』という返事が聞こえた。
あまりのしょげように、伊織はスマホを持ったまま苦笑した。
「あと、男泣きもな。選手の中で一番、泣いてたよな。お前」
『……恥ずかしいけど、多分』
「ちゃんと土はもらえたのか? 帰ってきたら、俺にも見せて」
なんとか励まそうと努めて気丈に振る舞う。ここまでへこんでいる江森の声を聞くのは、初めてだった。自分まで彼の調子に引っ張られてしまいそうだ。短い沈黙の間、伊織は次にかけるべき言葉を必死に模索した。
『伊織。今の時間って、テレビ見られる?』
今日の晩飯のメニューでも聞こうかと口を開きかけた時、向こうから話しかけられた。
「いや……、リビングにおじさんとおばさんがいるから、どうかな」
養父母のことを、伊織は常に「おじさん」「おばさん」と呼んでいた。しかし、当の本人たちへ何か話しかける際には、あの、や、すいません、で統一している。
引き取られた瞬間から、もう二度と大人の誰かを「お父さん」「お母さん」と呼ぶ日は来ないのだと悟った。ましてや不愛想な態度を取り続ける養父母のことをそんな風に親し気に呼ぶことなどありえなかった。彼らは、高校三年生になった伊織に進路の話を持ちかける気配すらない。何もたずねては来ずとも、早くこの家を出て行って欲しいと思っているに違いない。
この家の人間のことを考えるとろくな気分にならない。
ため息をつきかけた時、スマホの向こうで『実はさ』と江森が切り出した。
『夜の十時くらいにやってる報道番組が、今日の試合の取材に来たんだよ。それで俺、記者からインタビュー受けたんだけど……』
「えっ。テレビでお前のインタビュー映像が流れるってことか?」
『そういうこと。なんか知らないけど、注目の選手ってことになってる』
「そんなにすごいことをさらりと言う正人は、やっぱり大物だな」
やっぱりって何、と笑う声がする。よかった、いつもの彼に戻ってきた。
『ああ、でも……実際、プロのスカウトだって名乗る人に自己紹介されて話しかけられたな。自称だから、本当かどうかは半信半疑だけど』
「名刺とか渡されなかったの?」
『もらった。それも帰ったら見せるな』
会話の奥で、何やら彼を呼んでいる声がしている。スマホを口元から遠ざけ、今行くと江森が答えた。少し近くから『彼女?』という問いが聞こえた。からかうような声音だった。
『そう。今、スマホ片手にオナってもらってたとこ』
『マジで?! 俺も聞きたいっ』
『バーカ、冗談に決まってるだろ。――じゃあ、またメールと電話する。五日後あたりに、そっち帰るから。ああ、テレビは見られたらでいいよ。一応、報告な』
「分かった。じゃあ、おやすみ」
おやすみと答える江森の後ろでは、通話の終了間際までふざけ合う仲間たちの声が聞こえていた。誰しも、ずっと落ち込んでばかりはいられないのだろう。
スマホを机に置き、伊織は階下へ降りた。
江森が言っていた番組のスポーツコーナーが始まるまで時間がない。
はやる気持ちを抑えてリビングへ行くと、養父がソファーに座ってテレビを見ていた。チャンネルは、伊織が見たいものとは別の報道番組だ。
「あの」
呼びかけると、養父は丸くなった瞳をこちらへ向けてきた。声をかけられて初めて伊織がいることに気がついたようだ。
彼が驚くのも無理はなかった。伊織はいつも晩飯と風呂を済ませたらすぐに自室へ引っ込み、トイレ以外は室外へ出なかった。ましてや、顔を合わせにくい大人たちのいるリビングへ自分から足を向けようなどと考えたこともない。
「どうした」
普段ろくに口も利かない居候 から話しかけられ、養父は戸惑っている。が、口調は意外にも穏やかだった。
「テレビ……、見せてもらってもいいですか。少しだけでいいので」
養父は自分の手の内にあるリモコンを見下ろし、何も言わずにそれを差し出してきた。あまりにもすんなりとした態度だったため、拍子抜けする。もう少し抵抗されるものとばかり考えていたのだ。
礼を言うとともに会釈し、伊織は番組を切り替えた。
目当ての番組では、一日の間に起こった事件や事故のニュースを手短に伝えているところだった。スポーツコーナーはいつ始まるのだろうか。
「目的は」
「……え?」
「何か、見たいものがあるんだろう」
珍しく、親しげに問いを投げかけられた。
本当のことを素直に話そうかどうか、伊織は束の間、逡巡した。だが、誰かに自慢したいという気持ちが強かった。それが例え、己を快く思っていない相手だとしても構いはしない。
「……スポーツコーナーです。友達が、出るかもしれなくて」
「友達? 学校のか」
「ええ。野球部員で、甲子園大会に出たんです。今日の試合で準々決勝まで行って。結果的に、負けちゃったんですけどね」
「そうか……」
不思議なほどに胸が高鳴っていた。
スポーツコーナーが始まるのを待ちきれないせいもあるが、不慣れな状況に緊張しているせいもある。
自分の話をここまでしたことはなかった。
養父母との間には会話らしい会話など皆無に等しかった。特に義母から向けられる眼差しは冷ややかだった。この家に来た直後に、目の前で平気で嫌味を言われることさえあった。何を言ってもまともに取り合ってもらえないだろうと、伊織は彼らへ自ら話しかけるのをあきらめた。それでも、聞いてもらえなくとも、行ってきますやただいま、いただきますやごちそうさまでした、などといったあいさつだけは欠かさず行った。礼儀正しくしていれば、理不尽な怒りを買ったり厳しい態度を取られることもないだろうと踏んだ。予想通り、静かに生活していれば余計な口出しはされなかった。
来年の今頃、俺は何処で何をしているんだろう。高校野球の話題を待ちながら、ぼんやりと考えた。
少なくとも、この家にはいられないだろう。
アルバイトで貯めた金で借りられるような安い部屋を探して住み、あとは地道に働くしかない。過酷にも思えたが、一人暮らしをできるのなら悪くない。
江森は。彼は、どうするのだろう。
一年前の進路調査票には、進学の箇所へ印をつけたと言っていた。今年は考えが変わって、就職の欄に丸をしたらしい。さすがに大学行かせてくれなんて頼めないや、と彼は苦笑していた。聞くだけ聞いてみればいいのにと提案したきり、進路の話はしていない。
未来は、あまりにも不透明だった。泥水の中を手探りで進むように、少し先のことや現在地さえ見通すことができない。
これから、どうやって生きて行けばいいのだろう。
両親を亡くして間もない頃によく自問していたことを思い出した。
「高校野球……、これか」
義父の声で我に返る。顔を上げると、すでに今日の試合の話題が取り上げられていた。一試合目から結果を順に伝えている。
「君の友達、ポジションは何処だ」
「え。ライトです、四番で」
義父は、ほうと感心したように呟いた。野球に詳しそうな口振りだった。
「野球、もしかして好きなんですか」
「……ああ。高校生の中頃まで野球一筋だった」
「そうなんですか。どのポジションを?」
「ピッチャーだ。高校二年の春に肩を壊して、やめた」
意外な過去を聞かされ驚く。伊織の心情を察したのか、彼は「こんな話、君にしたことはなかったな」と苦く笑った。一人息子には幼い時分から聞かせていたけれど、野球には興味を持ってくれなかったと続けて聞かされた。わずかに疲労の色が見て取れる横顔には哀愁が漂っていた。
「君が野球に興味があるとは、意外だった。部活には入っていないんだろう」
「……はい。運動は、あまり得意じゃなくて」
「友達から、いい影響を受けたんだな。最近の君は、楽しそうにしていることが増えたような、そんな気がしていた」
目を瞬いていると、これじゃないかと義父が言った。
画面に視線を移すと、第三試合の様子が映し出されていた。二回の裏、江森たちのチームが先制点を入れたところから映像は始まっている。二点目を追加する際に一役買った恋人の姿が映った時、思わず「彼です」と口走っていた。
「……あの球を軽々と打つとは、なかなかの腕前だな」
「そうなんですか」
褒められると、自分まで嬉しくなった。
江森が最後の打席で放ったホームランについては触れられなかったが、試合終了後に受けたらしいインタビューの様子が流れ始めた。
彼は、記者に今後の目標はと聞かれた際「プロの球団に入団して、ゆくゆくはメジャーリーグに行きたいです」と答えていた。あまりにも大きな野望に、伊織は義父の前にいるということも忘れて失笑した。
「夢は大きい方がいいからな。きみの友達は案外、大物になるかもしれない」
「……ええ、そうなればいいんですけど」
「応援してあげなさい」
ふいに、穏やかな声が聞こえた。
義父は微笑んでいた。眼差しは今までになく優しいものだった。よく本の話をしてくれた父のことを思い出した。
伊織は笑いかけながら一言、はいとうなずいた。
未来がどうなろうとも、俺は一生、江森の夢を応援し続けるのだろう。
将来に、ほんのわずかな陽だまりができつつあるような気がした。
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