4 / 51

第4話 眩暈

 カウンターでママたちとお喋りしていたら、脇の方で「神崎」という固有名詞が耳に入ってきたのには、光も気づいていた。  だいぶ酒が入っているらしく、陽気に会話する一角では、繭が相手をしている。  しかしお世話になっている動物病院の院長先生がこんなところに来るはずないし、神崎違いだろうと振り向くこともなく、テルミさんの方を向いていた。 「ねえねえ。ユイちゃんて、将来メイクさんになるんでしょ?」 「うん、そのつもり……今頑張って勉強してるの。人の顔いじるの楽しいし、綺麗になるのっていいじゃない?」 「ユイちゃんは自分のお顔も綺麗だからいいわよねえ。私なんか、んもう! このあたり最悪。剃っても剃っても生えてくるアレ、なんとかならないかしら?! 医療脱毛とかどう思う?」  多少キレ気味にテルミが自分の顎の辺りをさすっている。見ればメイクの下にぼつぼつと青黒く髭の痕跡が見え隠れしていた。光はフォローに困り、苦笑いする。 「あっそうだあ。ユイちゃんさえよければ、今度私にもやってもらえないかしらぁ。自分流じゃなくて、メイクのプロにやってもらうのも参考になるかなって」  テルミの提案に、光はぱっと眼を輝かせる。 「うん、いいよ。まだプロじゃないけど、ユイがテルミさんの役に立てれば嬉しいな」   承諾し、本当に嬉しそうに笑う。  女の恰好をしている時、光の一人称は「僕」から「ユイ」に変わる。 「あたし」や「私」と言うのは気恥ずかしく、かと言って折角女の子になっているのに「僕」ではどうだろう、という気持ちの兼ね合いから、自分のことをユイと呼ぶようになった。  ユイとは光の愛してやまないうさぎの名前だ。 (院長先生に会えて良かった)  ユイを元気なうさぎに戻してくれた先生。手術が成功してユイが目を覚ました、という電話を受けた時、光は嬉しくて泣いてしまった。大丈夫、元気だよ、と言ってくれた声はとても優しくて、いくら感謝しても足りないくらいだった。  光にとって悠司は、特別な存在なのだ。 (旦那さん……)  唐突に、さっき話していた悦子ママの旦那さんのことを思い出す。  旦那さんということは、一緒に暮らしているのだろうか。しょっちゅう一緒にいて、いろんなものを見たり、話したり、感じたりしているのだろうか。好きな人とそういう関係になれたら、それはとても幸せなことだ。  もし悠司が、  ――思考を続けようとして、光は自分が次に考えようとしていたことに、酷く動揺した。  あまりの恥ずかしさに、顔が熱くなる。  何を考えてるのだ、自分は。信じられない。  そんなんじゃない。そのはずだ。 「いやだわあユイちゃん、グレープフルーツで酔ったの?」  煙草をふかしながらふざけるママに、光は我に返った。 「おまえ、声掛けてみれば?」  脇の方で、繭の恋人である惟人のからかうような声がした。 「よせって」  何をもめているのだろう。先ほどからなんだか視線を感じるし、気になった光は声の方を振り返る。  ………………。  ……。  振り返った先で目に映ったのは、見覚えのある院長先生、繭と惟人の三人だった。けれど瞬間、光の視界から悠司以外は除外されていた。  病院でいつも着ている白衣が、今夜は違う。見慣れないスーツ姿は悠司に似合っていて、目が釘付けになる。 (先生……え、なんで……?)  呆然と悠司を見つめる光に、向こうもじっとこちらを見つめてくる。アルコールのせいで、眼鏡の奥で瞳が少し潤んでいたのに妙な色気を感じた。  何故悠司とこんなところで出会うのだろう。心の準備が出来ていなかった光は軽くパニックに陥る。  そこに繭が追い討ちを掛けた。 「ユイちゃん、こっち来る?」 「え、繭姉……」  この場から逃げ出したい気持ちに駆られたが、そんなことをしたらおかしいし、かと言ってお誘いに出向いたとしてどうすれば良いのだろうか。  光はすっかり困ってしまっていた。第一悠司は、自分が宇佐見光だと気づいているのか、いないのか。 「こっちにおいでよ」  ――悠司の、低音が。  光を誘った。  くらりと眩暈がした。  体の芯がじわりと熱を持ったような気がした。  短い逡巡の間に色々な考えが頭の中を駆け巡ったが、やがて悠司が奥に詰めて開けてくれたスペースに腰を落とした。彼の体温が残るソファに、心臓が波打つ。  どうして誘いに乗ってしまったのだろう。けれど後悔する余裕はまるでない。  ユイだと名乗った声が、ほんの少し震えた。

ともだちにシェアしよう!