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第6話 サキュバス

 人並みの幸せというものを隣に置いてみたら、恐らく見劣りがするのだろう。  平穏な人生というものがあるなら、それはどこか他のところにあって俺にはないのだろう。  どこから迷路に迷い込んでしまったのか。分岐点はわかっている。だからその場所に今引き返せるのなら、多少の犠牲は払っても構わない。どんなにか楽になれるだろう、とそれを切望する自分を知っている。  けれども、引き返せないこともまた知っていた。それは虚しい仮定でしかない。あまりにも甘い考えだ。刻んだ時は戻らない。刻んだ傷は塞がらない。               (悠司くん……)  俺の名を呼ぶな。  機嫌を伺うように俺を見るな。        (悠司くん)  触らないで、  俺に触れないでくれ。   (悠司くんが……)    黙っていれば何も変わらない。     何も言わないで。喋らないで。       大丈夫何も悪いことは起こらない。         気持ちいいことだけ考えて。          怯えたりしないで。         拒んだりしないで。        私を愛して。     もっと もっと              もっと、  うすっぺらくて嫌いな笑顔。何考えているんだかわからない女。大嫌い。そんな女の思惑に乗ってあっさり欲情してる自分も大嫌い。あの女が俺に体重をかけてきた。豊満な胸が俺の上で柔らかく歪んだ。くびれた腰が、いやらしく絡みついた。ゆっくりと、  ――冷たい手が、俺の神経を逆撫でするように頬を掠めた。 「……さん、兄さんてば」  体を揺する手に、悠司は一気に覚醒した。  額に嫌な汗をかいている。そこに董子(とうこ)のひんやりとした手が落とされていた。 「大丈夫?」 「……董子。どうした」 「やだ、日曜の午前中はごはん作りに来るって知ってるでしょ」 「そうか……そうだったな」  ぼんやりと答える悠司に、董子は顔をしかめた。 「すごいお酒臭いんですけどお」 「ああ、飲み過ぎた。おかげで久々にヤな夢見た」  嫌な、感触が……  まだ残っているような気がした。  汗だくのシャツを乱暴に脱ぎ、ベッドからだるそうに起き上がると、腹の辺りでぬいぐるみのように動かないでいた毛足の長い白い猫が転げ落ち、首輪についている鈴が鳴った。  何やら息苦しかったのはこのせいか。  悠司の飼っているペルシャ猫のリリは、結構重たいのによく寝ている人間に乗ってくるのが困り者だった。床に落ちても抗議の鳴き声ひとつ上げず、何事もなかったようにその場でくつろぐリリには目もくれず、悠司はシャワーを浴びる為に浴室へ向かう。 「もー、年頃の女の子の前で脱がないでよっ」  嫌そうに目をそらした董子に、苦笑いが漏れる。  全裸ならともかく、上半身なんて腐るほど見ているのに、今更何を言うんだろう。それとも、そういうのを気にする年齢なのだろうか。董子は今年で19だ。  父の妻が生んだ年の離れた妹が、じきに二十歳を迎える。  董子が生まれた時悠司は高校に入ったばかりだった。それから大学を出て、見習い獣医になって、しばらくして独立し自分の城を持った。この前生まれたばかりだと思っていたが、考えてみればその間に悠司の中でも色々と変化はあったのだ。  色々と、あった。  心の中だけで呟いて、若干眉を歪める。しかしすぐにそのことから思考を切り離し、熱いシャワーをざっと浴びると、少し頭がすっきりした。  ここでバスタオルだけ腰に巻いて董子の前に出ようものなら、またしても非難轟々となるだろうか。想像して小さく笑ったものの、実行には移さないでおいた。 「そうだ、董子」  リリにも猫缶を開けてやり、妹が朝食を食べ終わったのを見計らって、悠司は話しかけた。 「ちょっと立って」 「えー? 何ぃ?」  唐突に妹を立たせると、悠司はくるりとその周囲を一周した。頭のあたりに手をかざしたりして、胸やウエストの辺りもチェックする。 「おまえ身長は?」 「166センチ……だけど」 「やっぱりちょっとでかいか……もう少し小さかった」 「何が? でかいって何よ、失礼だなあ! 普通だから」  少しむっとした董子に、悠司は上の空で何かを考えている。 「うーん……、董子は胸も無駄にでかく育ったなあ」 「またでかいって言った……さっきからひどくない?」 「怒るなよ。これから買い物に付き合ってくれ」 「彼女とでも行けば」  デリカシーのない言葉に軽く拗ねた董子に、悠司はあっさり「先月別れた」と白状した。初めて聞いた情報に董子はうんざりしたようにため息をつく。 「今度こそはいよいよ結婚するかと思ってたのに」  半年ほど付き合っていて、上手くやっていると傍目には映っていたかもしれない。 「結婚する気はないって言ったら振られた」 「ひどーい」 「なあ、ひどいだろう。俺は傷ついた」 「兄さんがひどいって言ってんの!」  董子の言葉が差しているのが自分だとわかってはいるのに、わざと矛先を変えてみる。本気で言っているわけではない。悠司は苦く笑った。 「言わなかったか? 俺は誰とも結婚する気はない」 「いつでもお迎え出来るように建てたわけじゃないんだ、この家?」  一階が病院になっているこの家は、まだまだローンが残っているものの悠司が自分の貯めた金で建てたものだ。実家にはほとんど寄り付かないので、たまに董子が食事を作りにきてやっている。 「大人にはいろんな事情がある。彼女が結婚したいと思うのもなんとなくわかるから、大人しく振られたんだ」 「……ああ、そう」  言葉だけを聞いていると、悠司は董子の言うようにひどい男に見えたかもしれない。  だがそこには彼なりの理由がある。董子には言わないが、悠司にしてみれば十分すぎる理由だ。  結婚したら好き勝手出来ないとか、拘束されるのが嫌とかそういうことではなく、もっと複雑な感情がそこには渦巻いている。結婚なんかして、これ以上奇妙な関係を築きたくはなかった。 「服でも靴でも買ってやるから、少し付き合え」 「えっ、やったー」  診察は三時からだし、まだ時間に余裕はある。董子はさっきまでの少々ご立腹気味だった雰囲気から一転、嬉しそうにいそいそと食器を片付け始めた。  ほとんど身動きのしないリリが、出かける時にだけ玄関についてきて、にゃーと鳴いた。

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