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第7話 雨に濡れたピアス
静かな雨の音が絶え間ない。
雨の夜は嫌い。
街灯も車のライトも、黒く染まったアスファルトに吸い込まれてゆくような感覚。暗くて、肌寒くて不安。暗闇は嫌い。先が見えなくて怖いから。
あれから何事もないままに雨の季節が始まった。
悠司に初めて「ユイ」として出会ってから、既に一週間が経過していた。貰った連絡先に電話もメールもしないで、時間だけが過ぎた。向こうに光の連絡先を教えていなかった為、こちらが連絡しなければきっとずっとこのままだ。
もう「ユイ」のことは忘れているかもしれない。むしろその方が都合が良かった。
空の色は昼間でもどんよりと重たく、じっとりと湿気を含んだぬるい空気が肌に纏わりつく。光はこの季節が好きではない。こんな時はお気に入りのワンピースも着たいとは思えない。先週テルミさんにメイクしてあげる約束をしてしまったが、今夜は店に行くのはやめることにした。日を指定したわけでもないし、また今度でもいいだろう。一向に気分が乗らない。
それに、もしかしたら、と思う。
もし悠司が、「ユイ」に会いに店に来ていたら?
多分それが、気分が乗らない本当の理由だ。
あの男に会いたくないのだ。
怖いのかもしれない。悠司は光にとって特別な存在のはずなのに、どうしてこんなふうに思ってしまうのだろう。病院に行く時は、なんとなく嬉しい気分でさえあったのに。
……多分、暗闇と一緒。先が見えないから。
悠司にあんなふうに誘われて、怖くなった。あの時までは、悠司の視線が光に向かうことなどなかったのに。だから安心していた。恩人で、大好きで、でもそれだけで良かったから。それ以上先は求めていなかったから、予想外のことに困惑している。だって想像がつかない。
それにユイ=光だと知った時、悠司はどのような反応を示すのか……。それもあまり考えたくなかった。
「……ね、暇だったらうち来ない?」
このところ土曜の夜家にいたことがなかった光は、時間を持て余していた。普段見ていない連ドラを見ても面白くはないし、ユイは勝手に遊んでいるしやることがない。電話をかけた相手は、突然にも関わらず「暇だよ」と言って難なく了承してくれた。なんとなく人恋しかったから、すぐ行くと言ってくれた友人の存在がありがたかった。
「どうしたよ」
柴田尚志 は20分ほど後に手土産持参でやってきた。長身が雨に濡れている。こんな雨の日にバイクを走らせてきたようだった。
「俺メシがまだなんだよ。一緒に食う?」
持ってきたファストフード店の袋が光に差し出されたので素直に受け取る。伸ばされた腕も紙袋もしっとり濡れていた。そんな状態で放置するのも可哀想だったので、タオルを渡してやる。
「土曜に呼ぶなんて珍しいな」
「ごめん、忙しかった?」
「んにゃ別に。それよりこれ、脱いでいい? べたべたで気持ちわりぃ」
返事を待たずに濡れたシャツを脱ぐ尚志をなんとなく見ていたら、鍛えられた厚い胸板に鈍く光るものを発見する。
「うわ、乳首にピアスなんて開いてたっけ?」
尚志に開けられたボディピアスに、光は痛々しい視線を向けた。指摘されると尚志は嬉しそうにそれを指で弾く。
「セクシーだろ?」
「……いや僕はそういうのはちょっと」
尚志の体には他にもボディピアスがついていて、光はそれがちょっと怖い。首のうしろにもバーベルが貫通しているし、よくそんなところに穴を開けようと思うものだと少々呆れる。
「嫌か?」
「耳じゃないとこはあんまり」
「宇佐見も開けたらいいのに。トラガスとか似合いそう」
「何それ」
「耳の入り口の出っ張ってる軟骨のあたり。可愛くねえ?」
光の耳のトラガス部分を指し示しながら、尚志は嬉々としてピアスを勧める。少し想像してみたがあまりぴんと来なかった。開けたことがないからわからないが、軟骨に穴を開けるのは、なんだか痛そうで嫌だ。
ユイが跳ねている隣で持って来てくれた袋を開けて、二人で食べる。よほど空腹だったのか、尚志の食いっぷりは豪快で見ていて気持ちが良い。光がポテトをつまんでいると、唐突に話題を振られた。
「兄貴の店で男にナンパされたんだって?」
ポテトが詰まった。少しむせる。
「ついてったのか」
「送ってもらった……だけだよ」
兄貴というのは、繭のことだ。
尚志は繭の弟で、そういった関係であの店を知った。わりと兄弟仲は良好らしく、情報が筒抜けなことがままある。が、余計なことを言わなくてもいいのに。
「へえ」
「なんだよ」
意味ありげに光を見た尚志は、唇の端を歪めた。
「いや、食われたのかと思った。そうか無事か。まあ……これでも俺、少し責任を感じているわけよ」
勝手に言って勝手に納得している。尚志はたまにこんな変なことを口走るが、きっと光が変な男に篭絡されやしないかと心配しているのだろう。この男は光の女装趣味も知っているから、そのお人形的な愛らしさも知っている。そもそも光に一番最初に女の恰好をさせたのは当の尚志だ。
美大に通う尚志は以前、光をモデルに絵を描いた。その時に尚志の趣味で初めてロリータ服を着せられて、うっかりはまってしまったのが運の尽き。それが尚志の言う「責任」の意味だ。
あからさまに言われて、光は少しむくれた。
いきなりそんなことを、悠司がするわけがないのに。
「食われるって……先生はそんなんじゃないし」
「先生?」
つい癖で先生などと呼んでしまい、はっとする。胡乱な尚志の視線になんだか気まずくなる。
「エロ教師?」
「ばっか、違う! 獣医さんなの!」
「……ああ、そういうこと。ふぅん」
ちらとユイを見やって、一人頷く。光をナンパした男が誰であるのか、瞬時に当たりをつけたようだった。尚志は「うーん」と難しいことを考えるように長く唸って、眉間に深いしわを寄せると、床に突いていた光の手首を急に握ってぐいと引き寄せた。突然のことにバランスを崩して、ピアスの胸に倒れこむ形になる。
金属の擦れる小さな音が耳の傍で聞こえた。
シンプルなサージカルステンレスは、尚志の胸によく似合っていた。
雨で冷えた皮膚の下の、体温。
大きな手が、髪をくしゃりと撫でた。
「な、に……」
混乱する光に、尚志は正体不明の笑みを浮かべた。
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