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第8話 絡まる糸

「あら……いらっしゃい」  雨降りで客足の遅い店にやってきた男に、繭は涼しく微笑みかけた。先週惟人が連れてきたこの男は、店の中をくるりと見渡して、残念そうに小さくため息をつく。  カウンターには悦子ママと、客が一人。スタッフも繭の他に一人いたが、テーブルを拭いたりして手持ち無沙汰のようだった。他には誰もいない。 「誰かお探し?」 「ユイちゃん、土曜によく来るって聞いたから」  案内された席に腰を下ろしながら悠司は呟くように言った。今夜はこの前みたく酒が入っていないらしく、そのせいか少しトーンが低い。 「今夜はまだ見てないわ。待ってみる?」 「……ああ」  悠司の返事は今夜の天気のように、なんだかどんよりとしている。  また、ため息が出た。何かあったのだろうか。繭は酒を作って出すと、悠司の隣に腰掛け、その横顔を見つめた。 (やっぱりいい男)  ユイが悠司をやけに気にしていたことを思い出す。  今までもたまに店の客にお誘いを受けているのを見たことはあったが、会話を楽しむことはあってもそれ以上のことにはあまり興味を示していなかったから、女装だけが好きな子かと思っていた。単に好みが違っただけだったのだろうか。  繭にとってユイは愛すべき妹のような存在だ。素直で、可愛い。弟の友人でもある。弟の尚志が初めてここに連れてきてから、たまに来るようになったユイを見守ってきた。 (尚志とは、どうなんだろう……?)  ユイは単なる友人だと思っているみたいだったが、あんな子を弟が放っておくとも思えず、そこが疑問だった。しかしそれは繭が介入するようなことではないし、あえて口は出さないでいる。 「繭ちゃんて、木邑とは上手くいってる?」  悠司の顔を見ながら考え事をしていた繭は、ふいに問われて現実に引き戻された。 「え? そうねえ、まあ普通に上手くやってると思うわ。なあに突然」 「木邑とは、どういう経緯で?」 「一般的な社会人やってた時の、先輩と後輩、かな。それから色々あってあたしだけ辞めちゃったけど」  繭はほんのりなつかしそうに視線を遠くにやったが、なつかしいだけではなく、その表情には様々な感情が入り混じっている。 「繭ちゃんは今の仕事、好き?」 「なに、質問多いわね。……好きっていうか、まあ。こういう選択があたしには一番楽なのかなって」 「失礼を承知で確認するけれど、君もユイちゃんも、男ということでいいんだろうか」  至極真面目に聞かれた繭は、数秒沈黙した。 「……結構、鈍いのね?」  やはり先週は、最後まで気づかないままだったようだ。しらふで店を訪れてやっと気づく悠司は、正直おめでたい。だが繭はそれと気づかないほど上手に女になれていたし、ユイも自然だったから悠司ばかりが悪いわけでもない。誰かが悪いとすれば、それは惟人だ。 「それでへこんでるわけ?」 「まあね」  悠司は苦虫を潰したような顔で、グラスに口をつける。 「男だったら、駄目?」 「今まで、そういうのはなかった」 「惟人だって男は私が初めてよ。いいんじゃない、別に。それとも男だったらユイちゃん嫌いって言うんなら、もう関わらないであげて?」  惟人の友人だろうが、ユイを傷つける対象になるなら繭にとっては快い存在ではない。ほんの少し語尾に険が滲んだ。だが悠司は気にしたふうではなかった。 「……嫌いじゃないんだ」  ぽつりと言って、煙草に手を伸ばしたので繭が火を差し出した。ぼんやりとそれを吸い込んで、ため息と共に吐き出される紫煙。眉間に刻んだしわを、なんだか好きだと繭は思った。 「実はユイちゃんが男だと気づいたのは、今日じゃない。ここのことネットで調べたらそういう店だってわかって、それからずっと悶々としてるってわけなんだけど。……ユイちゃんも、連絡くれないしね。警戒されてるのかもなあ」 (――あれ?)  もしかして悠司がへこんでいる理由は、男が女装していたということとは関係ないのだろうか。 「連絡来ないのがショックなんだ? じっと待ってるわけ」 「連絡先は知ってるけど、聞かなかったからこっちからは出来ない」 「……? 意味がわかんない」 「本人が黙ってるなら、俺は気づかないふりをするだけだ」 「何言ってるの?」  話の流れがよくわからなくて、繭は首をかしげる。悠司の言っていることはなんだかおかしい。連絡先を聞かなかったのに知ってるのは、変だ。探偵でもつけて調べたのだろうか。  怪訝な顔をする繭に、悠司は答えなかった。 「あ、ちょっとごめんなさい」  繭が何かを思い出したのか、ふいに席を立った。  ……見たことのある、誰か。  ユイという名前。  男であるということ。  女では浮かぶことのなかった名前が、悠司の脳裏にはあった。病院に連れてくるうさぎの名前はユイ。悠司を見た時にユイが驚いたのはそのせいだ。  悠司にとって患畜の飼い主でしかなかった、その人。男には興味がなかったから、いくら可愛くてもその時点で悠司の恋愛対象からは除外されるし、気にすることなんてなかった。  なのにユイに出会った。  女の子の姿をしていた。  心にひっかかってしまった。  絡み付いてしまった。  ほどけなくなっていた。  会いたかった。  つまりそういうことなのだと、認めるしかない。

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