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第9話 捕食者
雨の音が、遠くなった気がした。
何が起こったのか、光にはわからなかった。
尚志の大きな手が優しく髪を撫で、唇を撫でた。
「な、何……?」
「なんだと思う」
戸惑う光の質問をはぐらかし、楽しそうに質問し返す尚志の目は読めない。筋肉質の腕で華奢な体を抱き込まれ、動けないことに焦りを感じる。一体なんだというのか。
「柴田……とりあえず、離して」
「なんで」
なんとか逃れようとするのだが、尚志は離すどころか、更に光の自由を奪うように抱き締めてくる。保定されたユイのように、ますます動けない。ユイもこんな気持ちで病院のスタッフに抱えられていたのだろうか……いや、そんなことは今は。
「穴、開けてみようよ宇佐見。きっと似合う」
耳に軽く歯を立てて甘噛みされて、さっき尚志が言っていたトラガスの部分を舌でなぞられた。かすれた囁きと共に吐息がかかって、ぞくりとした。
「耳と、あと、――ここには俺が今、開けてやる」
服の上から腰の辺りを撫でられたと思ったら、ぐるりと体勢が変わって天井が見えた。視界の変化に、眩暈が襲う。
「……柴田!」
ユイの顔がすぐ傍にあった。
床に押し倒された光を不思議そうに見つめて、ぐいぐい鼻アタックしてくる。そんなことしてないで助けて欲しいが、所詮はうさぎなのでそんな芸当は無理だ。
何がどうなったというのか。
突然何をしようというのか。
さっきまで普通に会話していただけなのに、獣医と聞いた途端これだ。尚志は友達なのに、こんなふうに扱われるのはまったくの意味不明でわけがわからない。
服をたくし上げられて、尚志は光を可愛がるように体のあちこちを愛撫する。光がユイを撫でるのとは違う。触られたところが、熱を持った気がした。
指先が、掠めるように乳首を撫でる。普段ならくすぐったいだけなのに、とても意地悪な触り方に体を捩る。素直な反応に尚志が小さく笑い、優しく弄られた。何でこんなことをされているんだろうと、頭に血が昇る。
「ここ好きかぁ……可愛ぃのな」
「……っ好きじゃ、ないしっ」
「乳首勃起してんぜ?」
「ばっ……か、柴田! やめ……ふざけてんなら」
何てことを言う男なのだろう。恥ずかしくて涙が出そうだ。そもそもどうしてこんなこと、と先ほどから何度も何度も同じことを頭の中で繰り返している。
「ふざけてるわけじゃねえよ」
「じゃ、何っ」
「――マジで最後まで、する?」
な、
(何を?)
その時、スマートフォンが鳴った。
傍に置いてあったそれの画面には、繭の名前が表示されているが光の位置からは見えない。伸ばそうとしたその手を阻まれた。
「今は俺を見てろよ」
着信音が空々しく流れている。
長い間光が出るのを待っていたように感じた着信音も、途中で留守電に切り替わった。
静かになる。
尚志が脚を開かせて体を割り込ませてきた。何か硬くなった部分が腿の辺りに押し付けられる。
状況はとても良くない。
喉が、渇く。
自分の心臓の音が耳の奥で聞こえる。
本気で光をどうにかしようとしているのだ。光に欲情してるのだと思ったら、頭が真っ白になった。尚志の力は強くて、非力な自分には押しのけるだけの力がない。見つめられる瞳には、小動物みたいに怯えている自分の姿が映りこんでいる。それが尚志には、どう見えているんだろうか。
「何、馬鹿なことしてんだよ……っ」
「おまえの先生も、きっとこうしたいと思うんだろう」
「そ、んなこと……」
「おまえは何もわかってない。男のくせに男を知らない。可愛らしくて涙が出るよ。そんなおまえを他の奴に譲るのは、実に惜しい」
無表情の中に何かを隠し、淡々と尚志は言った。
「……おまえが悪い」
手首を拘束したまま、顔を寄せる。きめの細かい肌。柔らかくて可愛い唇が少し震えていた。
自分の下に組み敷いた光を見つめながら、尚志は尚志で様々なことを考えていた。
そんな潤んだ目で見て、誘っているのか。
俺が抱くのを待ってるのか。
おまえが悪い。無防備で俺の傍にいるおまえが悪い。壊してやりたいくらい。それとも壊して欲しいのか。……。
そんなふうに自分の心の中で起こっている葛藤も、光には多分わからないのだろう、と尚志は思う。
ずっと手に入れたくて、傍にいた。
光が自分を友達の一人だと見ているのは知っていたから、とりあえず何もしないでいた。けれど横から違う誰かに持っていかれるのを、指をくわえて見ていられるほど、尚志も大人しく出来ていない。
乱暴に扱いたいわけではないけど。
(あ……泣きそう)
光の顔をじっと見つめてた尚志の動きが、ふと止まった。
泣かせたら、可愛いだろう。
欲望のままに抱いてしまったら随分と楽になる。
他の男のものになる前に自分のものにしてしまえば、きっと光は身動きが取れなくなる。それは尚志にとっては願ってもないことだった。
目の前には捕食されるだけのうさぎがいる。
捕食者は尚志、うさぎは光だ。食べてしまいたいほどの気持ちを我慢していたが、今は手の中にある。強引にことを運んでしまえば、多分いずれは心も落ちる。そうも思う。自信はある。
……だけど、
泣かせるのは嫌だった。
尚志は一度深呼吸すると、表情を笑顔に変えてあっさりと体を離した。
「なんてな、……冗談だよ」
見事な変わり身の早さに、光は相手の神経を疑った。
「――し、信じらんない! 柴田の馬鹿!」
「宇佐見がお医者さんのこと盲目的に大好きだから、これは忠告。痛い目見ないように気をつけろってことだよ。おまえいきなり先生にこんなことされたら、びびるだろ?」
「しないから!」
「どうだか。……いやしかしあれだね、宇佐見があんまりアレだから、ちょっと本気になりそうだった。でけぇだろ、俺の」
「そんなん知るかっ」
光は真っ赤になって怒ったが、尚志はそ知らぬふうで何事もなかったように残っていたポテトをつまんだ。
嘘をつくことには慣れていた。
きっと上手に騙されてしまうのだ、光は。これからも友達でいたいから、なかったことにされてしまう。
それも慣れていた。胸の奥がちりちりするこの感じも。
雨の音が激しさを増してきたが、心臓はもっとざわめいていた。
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