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第10話 澱
見えるもの、見えないもの。
そこにあるものとそうでないもの。
信じてたものが崩れ落ちそうになる恐怖。
尚志の「冗談」は冗談にしてはきつかった。実際冗談だとは思えなかった。だけど冗談だということにしてくれるなら、素直に受け入れる方が精神的に救われる。
尚志の心はよく見えない。
友達だと思っているが、たまに本当は違うんじゃないかと心をよぎるものがある。
だけど今の関係は、手放したくない。
卑怯だと思った。
逃げてるだけなのだ。自分は。
あのまま彼のものになってしまえば、こんなふうに考えなくて済んだかもしれない。そうなってしまえばなったで、置かれた状況に順応出来たのかも。
……その時になってみなければ、わからないけど。
自分の心も、見えない。
暗闇と一緒。
光なんて見えない。
土砂降りの中、尚志はバイクで帰ると言った。
いつもなら「泊まってけば?」なんて言葉が出てくる。しかし先ほどのことがひっかかっている。
どうしよう、と思う。
なんでこんなにいたたまれない。
「……待ってよ」
ぎゅうっと尚志の生乾きの服の裾を掴んでいる自分に気づいて、何をしようとしてるんだろうとぼんやり考える。引き止められた尚志も、怪訝な顔を向ける。
「気持ち悪いんだ」
「…………もうしない。悪かった」
少なからず、傷ついたようだった。けれど自分が冗談で片付けようとしたことに対して、それなりに後ろめたい気分があったのか、素直に謝罪の言葉が出る。
「このままじゃ、気持ち悪い」
「……何が?」
「もやもやして気持ち悪い。なんで柴田ってそうなの? 馬鹿じゃないの? あそこまでやっといて、どうして途中でやめるかな!」
「いや、待て待て」
なんだか尚志は焦っている。光が何を言い出すのかと、相手の真意を計ろうとするのだが、答えが出ないのか柄にもなくおろおろしている。
「……俺は、おまえの何だ?」
「友達、だよ」
「だよな。だったら、それ以上言わないでくれ」
「だけど!」
「黙ってろって。口塞ぐぞ」
強く言われて、光は黙る。
……何を、考えているのだろう。
これではまるで、尚志にさっきの続きをしてくれと言っているようなものだ。その方が自分を許せるような気がして。
結局は人に委ねている。
依存している。
そんな気がした。
(じゃあ、どうしたら)
でも、だったら。どうしたら一番いいのだろう。光にはわからない。
(ユイにもわからないよ)
ふと、心の中で自分をユイと呼んだことに光は怪訝な顔をした。自分をユイに置き換えて、何を自問自答しているのだ。そんなことをして答えが出るわけもない。
(ユイ……ユイ……)
どうして女の子のユイなんて作り出してしまったのだろう。そうしたら悠司とあんな形で出会うこともなかったのに、そうしたら、こんなことで悩んだりしなかったのに、どうして……どうして、僕は、ユイなんだろう。
別の人間だったら良かったのに。
(その通りだね、光)
微妙な顔をして黙り込んだ光に、尚志は急に表情を和らげて「今度また、描かせて」と呟いた。
話はそれで終わりだった。
多分尚志は、光を描くことによって何かを封じ込めるのだろう。彼の絵は好きだった。彼に描かれるのも好きだった。
頷くしかなかった。
尚志のいなくなった部屋で、力が抜けたように座り込む。
すごく体力を消耗したような脱力感。こんな展開になるために呼んだわけじゃなかったのに、どうしてああなってしまったのだろう。
何が、悪かったのだろう。
尚志が自分に対して抱いてる感情を、見ないでいた。尚志も見せようとはしなかった。一緒にいるのは好きだった。楽しかった。
カンバスの前にいる尚志の目が好き。
光を描く時にこちらに向ける尚志の真剣な表情が好き。
一対一で向かい合う静かな時間が、好き。だけどそれは恋ではない。そんなんじゃない。――そう思っていたのは、光だけだったのか。
(駄目)
涙が滲んだ。
肌に残った、尚志のつけた痕跡をなぞってみる。あの時は無我夢中でよくわからなかったが、尚志の指先も、唇も、力強かったし優しかった。
(ユイは、ユイでありたい)
抱かれてしまえば良かった。彼の見えていない部分が、見えたかもしれない。隠してる何かを、見つけることが出来たかも。
(そんなのは、駄目)
心の中で、誰かが叫んでいる。
尚志を選びたがっている自分と、それを否定する誰か。
――ふと、
スマートフォンがぽつぽつと点滅しているのに気づいた。
そういえばさっき着信があった。拾い上げて発信者を見ると繭の名前が表示されている。直接に電話をかけてくることなどほとんどないが、土曜に顔を見せない光を気にかけたのだろうか。
メッセージが入っている。それを聞いて、電話をかける。
「……あの、……ユイです。これから行くので、待っててもらえますか」
電話の相手は、悠司だった。
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