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第12話 やむを得ない事情
柴田尚志の、鋭い視線に見つめられている静かな時間。
絵を描いている時の尚志は、とても寡黙で、光はその沈黙を破りたくなることがある。だけど話しかけるなと言われているみたいな真剣な表情に、何も言えない。
何事もなかったかのように、お互いこの前のことにはあえて触れないでいた。多分尚志はもう、消化出来ているのだろう。光が何か言わなければ、このまま何も変わらない関係が続くのだ。
何か、言おう。
喋りがたい雰囲気をなんとか打破しようと光は意を決した。
「柴田ぁ。休憩しないの」
「んー……もう少し。疲れたか?」
「喉渇いた」
仕方なさそうに立ち上がった尚志が、「ちょっと待ってろ」と部屋を出て行く。階段を下りる足音が遠ざかってゆく。
尚志の乱雑な部屋。美術系の資料や雑誌に混じって、怪しげなゲイ雑誌がちらほら。光の目に入る場所に置いてあるということは、今までも特に隠していたわけではないのだろう。自分が人にどう思われようと構わないような節がある。しかし実家なのに、親に見つかったりしてもいいのだろうか。
……あのあと、たくさん考えた。
頭がオーバーヒートして知恵熱が出そうなほど、考えていた。
あの夜から、光の心の中で何かが変化した。
よくわからないが、ユイはユイ、光は光、というふうに住み分けが行われたような気がする。悠司と話していた時の自分は、明らかに他人事のようにぼんやり傍観していた。ユイという女の子が、光のことを喋っていた。もしかして、うさぎのユイが光に乗り移っていたのだろうか。自分を助けてくれた先生に好きって言うために。……まさか。そんなことはありえない。あれも光の一部だ。
これは病気なのだろうか?
けれど、どこも悪いとは思わないし、何か弊害が出ているわけでもない。考えてみても、光にとって悠司はやはり尊敬する先生で、大好きではあるがユイの時のようにときめいたりしているわけではない。
どちらかと言うと、尚志の方を優先したがっている。
よく、わからない。
悠司は、ユイを守ってくれると言った。その後に、「シスコンだけど、それでもいいかな?」と聞かれたのが忘れられない。どうもこのシスコンが原因で結婚出来ないようだった。董子という光と同い年の妹がいて、とても可愛がっているそうだ。どんな子なのだろう。
その董子と買い物に行って、ユイに何かプレゼントを買おうとしたらしいのだが、結局決められなくて妹の服だけ買わされたという。そんな悠司を想像すると、ちょっと意外で、彼には悪いが笑ってしまう。
ユイが、悠司を好きだって言う。
それは光のすべてではないが、悠司はそれでもいいと受け入れてくれた。最初は戸惑うかもしれないけど、きっとすぐに慣れるだろうと。
たった二度、会っただけのユイ。どうしてそんなに好きになってくれたんだろう? 所詮は光の一部分であって、体が女の子になったわけではないのに。
あの時は自分のことで一杯で、理由なんて聞けなかったが、機会があったら聞いてみよう。
考えていたら、尚志がグラスを二つ持って戻ってきた。
「どうしたよ、ぼけっとして。ほら」
「考え事」
「先生のこととか?」
ちらっと光を横目で見て、すぐに逸らされる視線。
「それもあるけど。柴田のこととか」
「へえ。そう……」
微妙に反応したが、そのまま少し離れたところに腰を下ろす。必要以上に近づかないようにしているような印象を受けて、なんだか寂しい気持ちになる。
やっぱり気にしているのかも。
顔にはあまり出さないものの、それなりに配慮しているのだろう。光を傷つけたりしないように。尚志は外見こそ繊細さからはかけ離れていたが、それが心に反映するとは限らない。
「柴田は友達だけど、別に友達じゃなくてもいいかなって」
「………………」
言葉の選び方を間違った光に、尚志が重たいため息と共に盛大に沈黙した。
「あっ違う、悪い意味じゃなくて」
「悪くない意味って何だよ」
「たとえばエッチしても、普通にやっていけそうな気がする」
「……いやにあっさり言うねえ、お前」
この前押し倒されて泣きそうになっていたくせに、何かがふっきれたみたいに簡単に言ってくれる。尚志は妙な汗が出てくるのを意識した。
「下に親がいるから安全地帯だと思って言ってるんだろうけどな、真に受けたらどうするんだ」
からかわれているのだ、と尚志は思ったらしい。怒ったように眉を上げて、グラスを乱暴に床に置く。中身が少しこぼれた。
「だって、柴田のこと知りたいんだもん。柴田が僕のことどういうふうに思ってるのか、知りたい。そういう動機、駄目? なんか変に気ぃ使われてるのが、居心地悪いし」
こんなふうに、表面だけ元に戻ったように取り繕われても、どこかで違和感を感じている。尚志に変な気を回されるのは、嫌だ。もっと自分をぶつけてくれていいのに。……尤も、受け止めきれるかはわからない。
「後悔するぞ」
「後悔させないように、努力をしてもらえると嬉しいな」
「……宇佐見って、こんなんだったか?」
これまで付き合ってきた友達と、なんとなく違う気がして、尚志は不思議そうに近づいてその顔をじっと見つめた。
「まあ、こういう強気な態度も嫌いじゃないけどな」
「あ」
そのまま顔を近づけようとした尚志に、光が何かを思い出したようにその動きを止めた。
「やむを得ない事情により、先生と二股っぽくなるけど大目に見てね」
その「やむを得ない事情」をまだ聞いていない尚志は、呆れて地を這うような声を上げた。
「この俺を天秤にかける気かてめえは」
まったくいい度胸だ。泣かせてやる。尚志は心の中で毒づいた。
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