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【第2章 水の温度】第1話 百合の花
……悠司 くん
名前を、呼ばれている。
俺を狂わせる声が聞こえる。
もう、許してほしい。
もう触らないで。
悠司くん……他の誰も、
誰も好きになっては駄目よ。
私以外の誰も見てはいけない。
あなたを縛る鎖を持つ私を、
拒むことなど、許さない。
黙れ。頼むから黙ってくれないか。
得体の知れない笑みを浮かべて破裂しそうな腹を撫でるのはよせ。その中にいるのが誰か俺は知ってる。人間の形を模した鎖。それは俺の遺伝子を持つ胎児。
見たくない。
見たくない。
見たくない。
どうか生まれてこないでくれと願うけれど、それが叶うことはない。
ゆっくりと、首を絞めた時の感触。指が食い込む皮膚の温度。俺を見つめる暗い瞳。伸ばされるひんやりとした冷たい手。
俺の心を縛りつける。俺の罪を見せつける。嫌いな女に似た顔をした董子 が笑う。何も知らないような顔をして。俺が何をしたのか知らないのか。まだ生まれていないおまえを殺そうとした俺を。
きっと気づいているのだろうに。おまえへの愛情は俺が罪悪感を取り繕おうとした結果なのだと。
――それでもおまえは、俺を兄と呼ぶのか。
「神崎さん……」
ユイの呼ぶ声に、神崎悠司 はうっすらと目を開けた。
暗い。まだ夜は明けていない。
また夢を見ていたのか。
最近よく見る悪い夢。
「魘 されてたよ」
心配そうに顔を覗き込むユイに、悠司は起き上がり、背中に嫌な汗が伝う感触に身震いをした。
「怖い夢を見たの?」
「……ああ、大丈夫。起こしちゃったんだ、ごめんね」
「そんなの別に」
化粧をしていないユイの顔は、悠司がよく知る男の顔だったが、表情がとても柔らかくて愛らしい。細い体を寄せて、悠司の頬にそっと手を添えてくる。
「ユイが傍にいるよ」
「うん……ありがとう」
力なく笑って、ユイの手を握り返す。
温かい手。
悠司はこの手が好きだった。
自分を癒してくれる温度。凍えそうになっている自分を、溶かしてくれる。厭な夢も、少しは和らげることが出来る。
そのままユイを抱き寄せると、戸惑ったように微かに拒まれた。
「……駄目?」
「だって、ユイの体は光のだから……」
光というのは、ユイの宿主だ。ある日を機に、宇佐見光 とユイという人格は分裂し、ユイは悠司といることを選んだ。
ユイの心は女の子だったが、肉体は男だ。悠司の性癖はいたってノーマルだったから、男の体を持つユイはそれをとても気に病んでいた。悠司としては、ユイのことが好きだから出来ない相談ではないと思っているが、まだ躊躇いがあるのか体を開いてくれない。
ユイを守ると悠司は言った。
しかしそれは本当は違うのではないか。本当に守りたかったのは、自分自身の心。
ユイが傍にいてくれると、どうしてか悠司は安心することが出来た。初めて会った時に感じた、手に入れたいという気持ち。それは自分を守ろうとする本能だったのではないだろうか。
ただ、傍にいる。
それだけでもいいとは思う。
けれど気持ちとは無関係に、体の奥から止めることの出来ない肉欲が、じわりと滲んでくることがある。でもそれは健康体の男だから仕方ない。
「俺は気にしないよ?」
軽く唇を指でなぞり、なんとか気持ちが傾かないかと試してみたが、ユイは困ったように下に向けた顔を赤らめて呟いた。
「…………柴田くんが……つけた痕、見られたくないから」
悠司は思わず黙り込む。
そういうことか。
心は二つでも、体は一つしかない。ユイでない時に別の男に抱かれた痕跡を、悠司に見せたくないというわけだ。
ユイが悪いわけではない。わかっている。ユイはずっとそこにいる存在ではない。普段は光が自分の生活を送っているのだから。
いずれ慣れる、なんて言ってみたものの、やはり辛いものはある。しかしユイに抗議したところでどうなるわけでもなかった。
だから今とてもユイを抱きたいと思ったが、理性の力で抱き締めるだけに留めた。
「あ……」
ユイが何かに気づいて小さな声を上げた。
体をくっつけた拍子に、ユイに何か当たったらしい。正直な体に悠司は苦笑して、「ごめん」と抱き締めていた腕を離した。
「……神崎さん、あの」
「気にしなくていいよ。単なる生理現象と思ってくれれば」
少し気恥ずかしく思い、目を逸らす。薄暗い部屋で、眼鏡も外している今、ユイの顔は少しぼやけて見えたが、それでも何か言いたそうな表情をしているということはわかった。
「もう少し寝よう。……手を、握っててもいい?」
ユイはこくりと頷いて、ようやく笑みを見せてくれた。悠司の嫌いな「あの女」とは違う、嫌味のない可愛い笑顔だった。
ベッドの脇で董子が名前をつけた白いペルシャ猫のリリが、目を覚まして小さく鳴いた。
リリの名前は、百合の花を差している。
悠司は百合が大嫌いだった。
あの女の名前を思い出すから。
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