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番外編 玉繭
【柴田尚弥】
柴田尚弥 は朝が苦手だ。
夜の仕事をしているから、どうしても朝は遅い。目覚めるのはいつも昼前後で、一緒に暮らしている木邑惟人 は勝手に会社に出勤している。
知り合って3年くらいになる。10歳年上の惟人とは、尚弥がまだ繭 という名前を名乗っていなかった時に、就職した会社の先輩後輩として出会った。
大学を出たばかりのひよこだった尚弥に、仕事を教えたのは惟人だ。その会社も、入って2年で辞めた。今は女の恰好をして、女装愛好家の店で働いている。
そもそも尚弥は女になりたいわけではなかった。
1年くらい前に豊胸手術を受けた。永久脱毛もして、綺麗に化粧をして着飾って、自分は尚弥ではなく繭という名の女に変わった。惟人がそれを望んだからだ。
俺と付き合いたいんだったら、女になれよ。
そう言われた。
男なんて興味ないんだよ、って簡単に言われた。彼の一言は、つまりは尚弥を振る手段に過ぎなかった。そんなことは知っていた。
「……冗談が過ぎたか」
それを真に受けて女の姿形を取った尚弥に、惟人は絶句した。
真に受けていたわけではない。だけど悔しかったから。
悔しさが、今まで生きてきた男の自分を捨てるほどだったかと言えば、実はそうでもない。ちゃんと退路は残してある。下半身は、未だ男のままだ。胸だって、その気になればなんとでもなる。けれど今は、この姿を取ることを選んだ。
惟人は罪悪感から、自分と付き合っているのだ。
少なくとも尚弥はそう思っていた。
いつものように出勤すると、悦子 ママが誰かと喋っている。まだ開店していないのに、誰かしら、なんて近づいてゆくと、それは知った顔だった。
「わー、なっちゃん。久しぶり」
繭の仮面を被った尚弥は、半年くらいぶりに見たその男に顔をほころばせる。
「よぉ、美人さん」
相手の挨拶に、尚弥は吹き出しそうになった。
自分よりずっと美人さんがそんなことを言うものだから、なんだかおかしい。
すごく体のラインが細い、長髪のきれいな男。なっちゃんは旧知の仲で、バンドでベースを弾いていた。睫なんかばさばさで、化粧をしていないのにえらく美人さんなのだ。尚弥はこの男をわりと好ましく思っている。
「相変わらずいい胸してんね」
なっちゃんは軽く笑って、隣に腰を下ろした尚弥の胸に触れた。
「やーだ、触んないでよ」
「いや、何が入ってんのかと思って」
男姿の尚弥も知っているなっちゃんは、不思議そうに相手を見つめ、微笑む。とても魅力的な笑顔に、尚弥は少しどきりとする。
「好きな男の為とは言え、よくもまあ思い切ったもんだよな。俺には無理」
「……馬鹿みたいよねえ」
尚弥は苦笑し、煙草に火を点ける。ほんの1mgのメンソール。チェーンスモーカーの尚弥は以前もっときつい煙草を吸っていたが、軽いのに変えたのも惟人が言ったからだ。
彼の言葉に左右されてる自分がおかしい。気に入られたい。彼の言うとおりにしたい。
だけどそれは、素直な心からそうしているのではない。それは尚弥なりの計算だ。そうやって、惟人の言うことを聞いているふりをして、「可愛い女」を演じ心を縛る。
つられてなっちゃんも煙草に火を点けた。彼も尚弥に負けないくらいヘビースモーカーだ。
「なあ……しょうくん。いや、繭だっけ」
「どっちでもいいわよ、別に」
本当はどちらでもいい。昔の自分を知っている人間に、どちらの名前で呼ばれようとも。客の前では繭と呼んで欲しいが、今はママしかいない。
「今、幸せ?」
「……どうして?」
「無理してないんだったらいいんだけど」
――さくり。
なんとなく心に刺さったなっちゃんの言葉。
(無理?)
無理なんて、してない。
女の自分も、それはそれで気に入っている。男の自分が嫌いだったわけではないが、こうなってしまえばなったで、わりと楽しい。
父親には勘当されたけど、成人した男がいつまでも実家にしがみついている気もない。
兄の尚生 は引きまくっていた(堅物だしね)。弟の尚志 にもかなり不評だった(あの子は女が好きじゃない)。女の子が欲しかった母親だけ、かろうじて尚弥の味方だ。だけどそんなのは関係ない。
……無理なんて、してない。
黙り込んだ尚弥に、なっちゃんは困ったように呟いた。
「変なこと言ったな。悪かった」
そんなことないよって言いたかったけど、尚弥は曖昧に頷いただけだった。
仕事が終わって惟人が待つ家に帰る。
大抵眠っている。朝も会えない。時間帯が合わない。
一緒にいても会話をする時間は短い。本当にこれで良かったんだろうかと思うこともある。普通に男のまま会社員でいた時の方が、沢山コミュニケーションが取れた気がした。傍にいても寂しい。
同じベッドに潜り込み、背中からぎゅうと胸を押し付けた。
「……おかえり」
ふと惟人が目を覚ます。
ごそごそと身じろぎをして、尚弥の方に顔を向ける。眠そうな顔で、うっすらと瞼をこじ開けた惟人は、化粧を落とした尚弥の顔を軽く撫でた。
「ただいま、惟人。起こしてごめんね」
「――尚弥」
名前を呼ばれた。
人前では繭と呼ぶが、二人きりの時彼は、何故か本名を呼ぶ。
女になれと言ったのは惟人自身なのに、どうして男名で呼ぶのかわからない。だけど繭と呼ばれる時よりも、何故か心がざわめく。
(冗談が過ぎたか)
言った時の、惟人の顔が浮かんだ。
己を責めるような顔だった。
自分の取った行動は、間違ったものだったのかもしれない、と思うことがある。だけどそれを聞くことはしなかった。惟人も多くは語らない。
「なぁに」
返事はなかった。
惟人の瞼は再び閉じていた。寝ぼけていたのかもしれなかった。
なんだかせつなくなって、彼の体を抱き締めた。
(今、幸せ?)
私は幸せだよ。
無理なんてしてないよ。
私は惟人の為にこんな姿を取っているけれど、後悔なんてしていない。
だけど本当は、惟人はこんなこと望んじゃいなかったんじゃないかって……それを考えると。
……何も言えなくなる。
私は繭に、閉じこもるしかない。
【木邑惟人】
目覚ましが小さく鳴っている。寝るのが遅い恋人を起こさないように、とても小さな音にしてあるが、惟人はちゃんと起きることが出来る。
ぐっすり眠っている尚弥の寝顔を見つめ、惟人は小さくため息をついた。
見るのはいつも寝顔ばかりだ。
一緒に暮らしていても、休みの日くらいしかじっくり時間を取ることは出来ない。だからたまに、尚弥が働いている店にも顔を出す。そこでは彼を繭と呼び、 女として扱う。
自分が過去に口にした不用意な科白。それが今という現実を作り出している。
(馬鹿な野郎だ)
あんな言葉、本気に取られるなんて思わなかった。自分に好意を向けてくれるのは正直まんざらでもなかったが、やはり同性と付き合うことは惟人にとって重荷だった。
だから逃げたのに。尚弥はあっさり女の形を取った。
そこまで自分を好きでいてくれるのかと思ったら、それ以上逃げることが出来なかった。
……別に、
こんな姿にならなくても良かったのに。
確かに、今の尚弥は魅力的に思える。元々男にしては綺麗な造りをしていたから、女の恰好をしたってそれほど違和感はない。だけど、純粋な男だった時の彼のことも、惟人は好きだった。言ったことはない。
逃げたりしなければ良かった。
尚弥を追い詰めたりしなければ良かった。
彼を見ていると、たまに痛々しく感じる。惟人の好みに合わせ、綺麗に化粧をして、女でいることをなんでもないことのように笑う。
いつまでこんなこと続ける気なんだろう、と思う。自分も、尚弥も。
今日は土曜で休みだったので、尚弥を起こさないように音に気をつけながら、部屋の掃除をする。昼には起きてくる恋人の為に、もう少ししたら昼食の用意もする。
時計が10時を少し過ぎた頃、尚弥が目を覚ました。
重そうな胸が、裸の上半身にたぷんと揺れている。彼は髭も生えない。朝が来てもきれいなすべすべの肌。下半身を見なければ、女だ。
完全に性転換をしなかったのは、あるいは救いだ。そこまでされたら、気が重すぎたかもしれない。自分は確かに女の方が好きだが、元々男である人間を自分の言葉でそうしてしまうのは、はっきり言って精神的につらい。
罪悪感。
それが尚弥に対して感じているもの。だけど多分、一緒にいるのはそれだけが理由ではない。
きっと好きだと思う。
好意を抱いていなければ、いくらこんなことをされても一緒にいることは出来ない。尚弥がどういうふうに考えてるか、それは知らない。そのことについて、二人で話すのは意識的に避けていた。
「起きたか尚弥」
二人きりの時は、彼を本名で呼ぶことにしている。尚弥という名前の響きがとても好きだったし、女として扱っていないのだと暗に告げているのを、彼は気づいているのだろうか。
「……おはよ」
眠そうに目をこすっている。まだ寝足りないのかもしれない。ゆっくり寝ていれば良いものを、今日は惟人が家にいるから頑張って起きたのだろう。ふわぁ、 とあくびをして、ベッドから這い出ようとした尚弥に近づいた。
むぎゅ。
抱き心地の良い体を抱き締めると、尚弥はくすぐったそうに笑った。
「ひとつ聞きたいことがあるんだけどな」
やわらかい胸が当たっているのを意識しながら、惟人は呟く。
ずっと考えていたことを、口にしてみる。
「俺、脱サラしてなんか店でもやろうかなって」
「……どうしたの、急に。仕事やんなった?」
「そうじゃないけどな。おまえ、もし俺がそうなったら、手伝ってくれるか? 今の店辞めてさ。まあ、すぐにとは言えないけど。今金貯めてるとこだ」
尚弥と一緒に何か出来たらいいなと考えていた。夜の仕事を反対しているわけではないが、やはり昼間働いている自分とは、どうしても時間帯が合わない。
こんななりの尚弥が、昼間働ける場所は限られるような気がする。普通の会社にはきっといられないだろう。だから、自分が何かをやろうと思った。
こんなふうに行動を起こそうと思えるのも、やっぱり彼を大切にしたいからなのだ。それに気づいているのかいないのか、尚弥は面白そうに、「じゃあ私もお金貯めないとね」とまた笑った。
いつか尚弥が、二人で作り上げてしまった不自然な玉繭を破って、外に出てこられたらいいと願う。
何の含みも罪悪感も存在しない仲になれたら一番だと思う。
……それがいつになるのか、はっきりは見えないけれど。
現状を打破しなければ、望む未来は永遠にやって来ない。
※第2章へ
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