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第5話 消し去りたい過去
小百合はかつて、父の数ある恋人の一人だった。
たった一人を選ぶことの出来ない父は、悠司の母親とも長く続くことはなくて、小学校に入学する前に自分の傍からは消えていた。
どこにいるのかは、知らない。生きているのかさえ知る術がない。
女達にとって父のどこが魅力的だったのか、悠司にはわからない。自分だけを選ばない男の、何に惹かれたのか。顔か。体か。それとも金か。子供だった悠司には理解することが出来なかった。
父のことは好きではなかった。小百合のことも、好きではなかった。
小百合が初めて悠司と関係を持ったのは14の冬。雪が降っていた。とても寒い夜だった。雪が音を殺してしまっているような、静かな夜だった。小百合の体も、冷えていた。
「悠司くん……」
名前を呼ぶ声が、暗闇の中で聞こえた。
眠りを妨げられた、と気づいた時には小百合が上にいた。白い肌が、目に痛々しく感じられた。
好意を持っていない女と、どうしてそんなことになったのか。今でも後悔している。あの時に戻れるならやり直しをしたいが、出来ないこともわかっていた。
思春期の好奇心と、小百合の強引さでそうなったのかもしれない。その時の心情は、実はあまり覚えていない。
覚えているのは、小百合の手がとても冷たかったこと。氷水に浸かっていたような、血が通っているとは思えない手が、悠司を優しく撫でた。半ば犯されるようにして、年上の女とそうなった。初めての経験に、ガキだった自分は馬鹿みたいに溺れた。
「悠司くんは、お父さんによく似ているよ」
嫌いな父と自分が似ているなどと、認めたくはなかった。嫌そうな顔をすると、小百合は薄く笑った。酷薄な、嫌な笑み。
この女が何を思って自分を抱いたのか。父と似ているからなのか。悠司自身を憎からず想っていたからなのか。
理由など聞く必要はなかった。小百合の体は柔らかくて、表面と違って中は温かく、気持ち良かった。心だけが嫌がっていた。心と体は別のところにあるのだと、この時知った。
今考えれば、父を裏切りたかっただけかもしれない。
小百合も多分、父を裏切りたかったのだ。他の恋人たちと同列に扱われることを良しとしなかった。だから、悠司を利用した。したたかな女だ。
子供など出来ない方法を知っているからと小百合は嘯いた。勿論それは浅はかな嘘だったのだ。
悪いのは、騙した小百合か。
真に受けた悠司か。
……どっちもどっちだ。結局は父を欺き関係を続けたのだから。子供が出来るか出来ないかなんて、この際意味はない。
だからもし董子が悠司の子でなく、父の子だったとしても、それは意味がない。寝たのは事実だ。数え切れないほど、体を重ねた。心が罪悪感に悲鳴を上げながら、それとは裏腹に小百合の体を貫いた。
父と結婚したいが為に、小百合は董子という種子を交渉の道具に使った。その発想が、悠司にはとても理解出来ない。もっと違う方法があるだろうに、小百合はそんな嫌な方法を思いついたのだ。病的だとさえ思う。
大切な息子の将来に傷をつけたくはないだろうと、父に話しているのを聞いてしまった。妊娠がわかった時悠司はまだ15歳で、もう堕ろせない時期に入っていた。
父親になるには早すぎた。精神的にも社会的にも未成熟だった。嫌いな父がそれを受け入れたことに対しても、プライドが傷ついた。所詮自分は子供だったのだ。何も出来ない、15のガキだ。
もしかしたら自分は小百合を好きなのかもしれない、と思い始めていた頃だった。
悠司の不始末の責任を取れと父に迫った小百合の、
――細い首を、後ろから絞めた。
人は嫌い。裏切るから。言語の違う動物に関わる獣医などという職業に就いたのは、そのせいかもしれない。
年を重ねるにつれ、他人と上手くやってゆく術を身につけた。笑顔もさまになるようになった。わざと抑えた喋り方も、悠司の容姿には似合っていた。父に唯一感謝するとすれば、見てくれの良いこの外見をくれたこと。女には好かれた。顔が好きと、よく言われた。
だけどそれは本当の自分ではない。心の中はどろどろとした物で溢れそうになっている。それを押し込んで、硬い殻で武装しているだけの話だ。
いつかユイにも、自分の本性がばれるだろう。その時、彼女は悠司を裏切ることなく傍にいてくれるだろうか?
けれど悠司は、諦めることにも慣れていた。相手に過度の期待をかけることもなく、背を向ける者を追ったりはしない。いちいち傷ついていたら、この身が持たないと気づいたから。
それが大人になることなのだ、と悠司の顔をした誰かが言った。
スマートフォンが鳴っている。
董子は朝食の後片付けをして、なんだか居心地が悪そうにすぐ帰ってしまった。董子にあたるなんて、馬鹿なことをした。あの子には罪はないのだから。むしろ大切にしたいのに。父親らしいことなど何一つ出来ない自分が、せめて兄として、董子を愛してやりたかった。
時計は十一時を少し回っていた。
鳴り止まない呼び出し音に、悠司はため息をついてスマートフォンを拾い上げる。
「……ユイ?」
しかし声の主はユイではなく光だった。ユイの時と、声のトーンが少し違う。何かがあったのか、とても不安そうな声だ。
何故か、心が動きそうになった。
彼はユイではない。迷いの果てにユイを切り離した男だ。ユイと似て非なるもの。けれど光がいなければ、ユイもまた、存在しない。
それに、光を嫌いなわけではなかった。それはユイを好きなように、という意味ではなかったが、好きか嫌いかと問われたら、好きだった。
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