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第6話 折れた爪

「うわあっ。ユイ、ユイっ」  突然叫び声が聞こえたので、眠くて転がっていた尚志はむくりと起き上がった。 「……どうかしたかあ」 「手から血が出てる! つ、爪。爪が引っかかったみたい……痛い? 痛い? ユイ……」  おろおろしている飼い主に、少し落ち着け、と尚志はなだめてうさぎのユイを見る。前足の片方が、赤く染まっている。カーペットにも点々と残る、血の痕。取り乱した光に驚いたユイが、ダッシュで部屋の隅に走っていったので、更にそれは広がった。  ……元気そうではある。  うさぎは痛みに鈍感だと聞いたことがある。あるいは、痛くても隠すらしい。被食者だから、弱みを見せたがらない。 「病院連れてくか?」  今朝方悠司の所から帰ってきた光を、また奴に会わせるのはなんだか嫌だったが、彼が愛しているうさぎの非常事態に、そんなことも言っていられない。まあ、多分大したことはないような予感がしたものの、尚志は光の代わりにユイをあっけなく捕まえてキャリーに詰める。 「あ……でも……三時からなんだっけ」  日曜の診察は、午後の三時からなのだ。今はまだ昼前だった。別の病院に連れてゆくという手もあるが、やはりいつも世話になっている悠司に診せるのが一番だと思う。しかし時間がよろしくない。 「落ち着けって。おまえの頼みくらい聞いてくれんじゃねえの。先生の連絡先、知ってんだろ」  気が動転している光に、やれやれと尚志は頭を掻く。飼い主がこんなでどうするのだ。とりあえず落ち着こう。 「う、うん……か、かけてみる」  泣きそうだ。ユイのことになると、どうにも光は冷静さを欠く。以前手術で入院した時もそうだった。光にとってユイはわが子同然の存在だったが、動物と暮らしたことのない尚志にはぴんと来ない。  光は悠司に電話して、何やら喋っていた。短い会話の後、診るからとにかく連れてこいと言われた光は、ユイの入ったキャリーと財布と車のキーを掴んで部屋を出てゆこうとする。 「待て待て」 「……柴田、なに。早く行かないと」 「車、俺が運転してやるから。今のおまえに運転させるのは、危なっかしい」  気がはやるあまり、事故なんて起こしやしないかと心配で、尚志はその手から車のキーを奪った。まだ若葉マークのついている車の運転は、尚志にしてみればあまり上手いとは言えないレベルだった。こんな精神状態の時に運転なんてさせたくない。  それに……。  悠司に会えるチャンスでもあった。  どんな奴なのか、この目で見てみたかった。  助手席で大切そうにユイの入ったキャリーを抱えている光に、尚志は前方に気を配りながら、少しだけ視線を送る。  不安そうな、横顔。たまにキャリーの中に手を入れて、ユイの小さい頭を撫でている。当のユイは、白い毛を赤く染めながら、狭いキャリーの中でじっと身動きをしない。鼻が小刻みに震えていた。  ふと尚志は馬鹿げたことを考える。 (先生に会いたいのか、ユイ)  そんなわけはないのだろうが、わざと怪我したのじゃないかなんて考えてしまった。勿論、光のもうひとつの人格であるユイと、うさぎのユイは別物だとわかってはいる。  あの時自分は眠っていたから、ユイが怪我するところを見ていない。もしかして……光の中のユイが、うさぎのユイの爪を――と、ありえない可能性を考えて、そんなわけはないと思い直す。光がこの小さな生き物をどれだけ大切に想っているか知っているのに、そんな可能性を持ち出すなんて、どうかしている。ユイになっている時の記憶も、一応あるということは聞いていたし、冗談でも光に言うことなど出来なかった。 「なあ……先生といる時って、どんな感じ?」  関係のないことを聞いてみた。この切羽詰った空気を何とか和らげたかった。 「え……うん……」 「歯切れ悪いな。心配しすぎ。大丈夫だよ、さっきだって走ってたし」 「うん……そうだよね」  尚志の気遣いに、光は無理に笑顔を作る。だけど怪我をしたユイを見たことなどなかったから、やはり心配なのだ。  怖い。  手術の時に取り除いた子宮を見たことなら、ある。ぼこぼこと腫瘍の出来た、赤黒い物。ユイを苦しめた癌細胞。あの時は貧血を起こしそうになったが、ユイから取り除かれた後の物体だったので、今の状況とは若干違っていた。  小さな可愛い手なのに。痛いだろうに。可哀想に。そういう思いが、ぐるぐると渦巻く。  尚志の左手が、ぽんと光の頭に置かれ、くしゃくしゃと柔らかい髪を撫でた。 「落ち着け」  涙が零れそうになった。

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