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第8話 不機嫌と自己嫌悪
帰り道、尚志は不機嫌だった。
今朝会った時よりも、ずっとご機嫌斜めだ。何故彼がそんな顔をするのかわからない光は、不機嫌ながらも安全運転をするその横顔をじっと眺めていた。
不機嫌な尚志の顔は怖い。
元々いかついのに、こうなると余計に怖い。
一体何に苛ついているのだろう? さっき足を踏んだことだろうか? 沈黙に耐えかねて、光は口を開いた。
「どうかしたの」
「……どうもこうも」
いつもは和やかな声も、微妙に棘がある。
「足、痛かった? でもあれは柴田が悪いんだよ」
「おまえって結構鈍いな。そんなん気にしてねえから」
鈍いという単語に、光はむっとする。何が鈍いというのか。わかっていない相手に、尚志は呆れたように嘆息した。
「いいよ、もう。おまえはそのまんまで。俺が勝手にへそ曲げてるだけ。おまえは悪くない」
「――先生のこと?」
信号が赤になったので、軽自動車は停止線で緩やかに止まった。尚志はこちらをちらりと見て、
「何、あの正統派色男。面食いだったんだなあ、おまえ」
と言い捨てた。
「えーと」
いきなり何を言い出すのかと思えば。
確かに悠司の顔は、好きだ。顔の造形が綺麗で、かっこいいと思う。眼鏡がよく似合う、大人の男。穏やかで友好的な笑顔。落ち着いた低音の声。細身で長身。どこを取っても光には理想的だ。一言で言えば、尚志が言ったとおり色男。絵を描く尚志にしてみたら、いいモデルになるのではないか、などと思う。
実を言えば、尚志の顔だってわりと好きなのだ。
必要性を感じなかったので、言葉にしたことはない。
絵を描いている時の真摯な目とか。自信家っぽい不敵な笑みとか。自分を抱く時に垣間見せる、なんだかせつなそうな表情とか……すごく色っぽいなと思ってしまってどきどきする。余裕のあるふりをして、でもどこか苦しそうな顔とかも大好きだ。
別に顔が好きで一緒にいるわけではないから、言う必要はないと思っているのだが、言ってやった方がいいのだろうか? それで不機嫌なのかもしれないし。
などと逡巡していたら、尚志がだるそうに余計なことを喋り出したので機を逃した。
「しっかし食えない性格してそうだな。ああいうタイプは、笑顔の裏で何考えてるかわかんないんだぜ。俺がおまえにハグしても、顔色ひとつ変えやしない」
「それは……僕はユイじゃなかったし。先生を悪く言うのはやめてほしいんだけど」
「俺がこんなに愛情注ぎ込んでやってんのによ」
さらりと愛情なんて言われたので、心臓がどくんと波打った。だけどどう返事していいのか迷って、わざと論点をずらす。
「柴田が注いでんのは、精液じゃん」
予想していなかった返答に、彼の顔が微妙に引きつる。なんでそういうことを言うんだろう、なんて目で見られる。
「その可愛い口で言うか? そういうことをさ? 大体、俺はちゃんとゴムつけて」
「はいはい」
……顔、好きだって言い損ねた。
尚志のことを、好きだと言ったことすらない。気持ちを問われたことも、なかった。なんとなくそんな話の流れになっても、いつだって核心に触れる前に、話を逸らしてしまう。
本当のことを言うと、光自身よくわからないのだ。
友達じゃなくなっても大丈夫、それ以上になっても。そう思っていた。尚志が自分をどんなふうに見てるのか知りたくて、彼のしたいようにさせてみた。求められるままに、その体を受け入れた。意外にもすごく優しくて、それまで知らなかった一面を知れたことが嬉しかった。
だけど、これは恋なのだろうか? 尚志のことは大切で、好きだけど、それがどういう「好き」なのか、わかっていない。だから言えない。
尚志が何に憤っているのか、なんとなくわかったような気がした。
自分は素直になれない反応ばかり返してしまうし、まるでタイプの違う悠司を目の当たりにして、不安になったのだろう。
悠司を好きなのはユイだ、なんて言い訳でしかない。尚志にとって光は光であり、ユイではない。あくまで同じ人間だ。
卑怯な自分に気づかされる瞬間。
信号が、青に変わっていた。
「――光」
自己嫌悪に陥っていたら、急に名前を呼ばれてどきりとした。
以前は宇佐見と呼ばれていた。今も普段はおまえとか呼ばれることが多かったから、尚志に名前を呼ばれると、慣れないのもあってどぎまぎする。あっさり名前にシフト出来る尚志は、気持ちの切り替えが早いのだろうか。柴田尚志を、尚志なんて呼ぶことは出来ない。恥ずかしくてとても無理だ。
「あんまりぐだぐだ考えんな」
静かな声で、尚志が呟いた。
見透かされている。
よく尚志のことを馬鹿と言ってしまうが、本当は馬鹿じゃないと知っている。彼の感覚はとても鋭い。光が見えないことも、しっかり見えていたりする。なのに、見透かして欲しいことには気づいてくれない。だから言葉があるのだが。
口で伝えなきゃならないことは、世の中にはたくさんある。知ってはいる。素直に言えたらいい。
「柴田はさぁ、……いい男だよね」
これが今の精一杯だ。
尚志は少し黙ってから、面白そうに笑った。
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